原稿掲載:新しい霊性運動と臨床心理学からの3つの課題
2012.03.16 Friday 16:49

*牧会ジャーナル誌 2011冬号 No.53 原稿を掲載

新しい霊性運動と臨床心理学からの3つの課題

(1)本紙「牧会ジャーナル」創刊号(1949年)に私が書かせていただいたのは、「牧師コラージュ訪問記」という連載の第1回記事であった。毎回、実績のあるベテラン牧会者を訪ね、その牧会者のインタビュー記事と、その場で実施した心理テスト結果や、作っていただいたコラージュ作品を紙面に掲載するものだった。第1回目は斎藤篤美先生(当時、衣笠中央キリスト教会牧師)であった。
 今から考えても随分と大胆な連載であった。この連載記事に見るように、私は常に心理臨床の立場から記事を書こうとしてきた。こちら(臨床)の土俵をストレートに紹介することもあった。しかし、そうこうしているうちに、自分の引き出しからすでにある物を使うのでなく、編集会議などで与えられ、刺激されたテーマを温め、引き出されるものを待ちながら書くようになった。読者からの声にも勇気づけられ、また影響を受けていった。牧会ジャーナルを介して、あるいは牧会ジャーナルの有している不思議な雰囲気に包まれながら、触発されながら、目が開かれていく思いだった。

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記事:信徒がかかわる「牧師のメンタルヘルス」
2010.06.14 Monday 20:28
 
 『いのちのことば』7月号(いのちのことば社)に、拙稿信徒がかかわる「牧師のメンタルヘルス」』 という記事が載った。

 編集部から雑誌の送付待ちであるが、HPにはすでに掲載されていた。→こちら

 私は、いのちのことば社の牧会ジャーナルによく記事を書くが、同じ会社でも、それ以外の部署からの原稿依頼はかなり珍しい。それにしても、信徒が、牧師のメンタルヘルスにいかに関わるか、という視点は、これまであまり扱われてこなかったテーマではないか。そうしたテーマをあえて設定した編集部に敬意を表したい。


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記事「自分の弱さと限界を認めることを考えるЭ誉犬療合」
2010.04.04 Sunday 08:10
*牧会ジャーナル 2009年冬号に掲載
 

「自分の弱さと限界を認めること」を考える(7)人生の統合 

  前号で、山本周五郎の小説「雨あがる」をテキストに、私たちの人生には、なんともしがたい状況で、ちょうど江戸時代の旅人が雨に足止めを喰うように、病気やもめ事などで、強制的に立ち止まらせられる経験をすることがあると述べた。しかし、それは私たちに、それぞれの節目で、人生の宿題をつきつけられているのであり、その答えを提出することで、質的に豊かな生き方に至ることができるとも述べた。


 この答えを出すというのが、実は難しい作業となる。実は、私たちは、人生の後半戦、で大きく行き詰まるときに、自分の中に、これまでの自分とは異なったテーマを持っていることに気づくのである。小説「雨あがる」の主人公は、優れた武術を身につけながらも、旅浪人として平和を愛し、人と争わない生き方を実践していた。しかし、雨に足止めを喰った安宿屋に滞在したときに経験したエピソードを通して、自分の人生の宿題に気づき、自分の中に、これまでの自分の生き方とは違う、侍として、仕官し、出世していく生き方を求める気持ちのあることに気づくのであった。


 その際、従来の自分の生き方も大切にし、新たにわきがってきた新しい生き方も尊重し、どちらかを選択するのでなく、双方のテーマがゆっくりと統合されていくのを待つことが肝心で、人生の宿題の解答は、選ぶのでなく、統合することなのだと結んだ。

 

■ 統合することの難しさ


 
言うはやすしである。多くの場合、人生の宿題を前にすると、なかなかゆっくりと統合を待つことは難しい。行き詰まった人にとって、新しくわき上がってきたテーマは、すべてを刷新してくれる革命的な魅力がある。


 もしここで、新しいテーマに取り憑かれ、これまでの自分らしさをすべて捨て去ろうとすると、人生は大きく動き始めるが、破滅につながりやすい。


 一方で、新しいテーマに一瞬引きつけられても、よくよく考えて一時の気の迷いと割り切り、それを忘れ、従来の自分の生き方をより固めていこうとすることも多い。そうなると、行き詰まった現状は結局まったく変わらないということになる。

 

  宿題の提出


 
さて、人生の宿題の提出の用意ができると、どのような状況であっても、とつぜん雨があがるということが起こる。


 小説「雨あがる」の主人公、伊兵衛の雨もあがった。彼にとって、平和に生きるテーマと、出世するテーマの双方を見据えることができたことで、宿題が完了した。これからは何が起きようが、どちらのテーマが窮地に陥ろうが、その都度、双方を大切にしていく姿勢を保っていくことができればいいのである。


 結局、伊兵衛夫婦は、仕官の道は開かれず、そのまま旅を続けるべき状況になった。というのも、安宿滞在中の、賭け試合が藩にばれてしまったからである。それでも彼らには後悔はなかった。妻も、賭け試合をした夫の動機(庶民の平和のためにという動機)を肯定し、夫にそう告げる。二人はこれでよいのだとしみじみと思うのであった。


 
ここで現象面だけを見ると、伊兵衛夫婦は、武士や出世のテーマを捨てて、人々と平和に暮らすテーマを選び取ったということになる。しかし、心の世界で本当に起きていたことは、選び取ったのでなく、対照的な二つのテーマを統合していったということなのである。だから、極論を言えば、仕官が実現してもしなくてもハッピーエンドなのである。


 このように、人生の宿題を提出すると、人生の風景が違って見えてくる。ひとつのテーマの遂行にあれこれ苦心していた人生の風景に比べれば、視界が開け、選択肢が増え、新しい眺望の中に、新しい生活と新しい希望を感じることができるのである。

 

■ 聖書の人物たちも


 聖書の人物たちもまた、人生の宿題を抱え、統合の課題を追い続けているように思える。


 聖書の人物の成功物語は、単純化すれば「不信仰→信仰」というプロセスなのだが、その人生の短い記述の行間の中には、生々しい人生が隠されている。人生の後半戦にいる人物たちであれば、当然、人生の途中で、切り捨てていたかつてのテーマが再浮上し、そこで葛藤することがあると推察されるし、その解決に際して、必ず自分の幾重にも分かれた気持ち(これまでの生き方の自分も真実であり、新たに浮上してきた行き方も自分の真実であるという気持ち)を認め、自覚し、受け入れるプロセスが存在したのではないだろうか。


 
たとえばアブラハムとサライのように不妊の夫婦が、神の奇跡で実子が与えられる話がある。これらは人生のかなり後半戦で起きていることに注目したい。人生の前半戦で悩んだ末、忘れようとしてきた妊娠・出産テーマを人生の後半戦で再び喚起される状況になったのである。このとき、すでに、妊娠・出産テーマとは異なる、現実の生活を祝福されるよう、旅をしたり、戦いをしたり、日々の労働に精進したりした、これまでの生き方とテーマがあるのである。やはりここにも2つの自分の生き方やテーマが現れ、時間をかけて、時に危なっかしい失敗をしながらも、統合していく成長の物語があるのではないかと思うのである。


 
人生の宿題。それは人生の後半戦で神が用意している、人の生き方を豊かにする質的転回点なのである。そしてそこでは、自分の新しい(本当は昔からあり、知らず知らずのうちに切り捨ててきた)生き方を認める作業、そして、それに取り憑かれるでもなく、従来の生き方に戻るのでもなく、時間をかけてゆっくりとそれらを統合していく作業が待っているのである。さらにいうなら、従来の生き方の限界を認めることも、新しい生き方や解決策に性急に飛びつかずに忍耐をもって神の時と方法を待つことも、実はきわめて霊的な作業であると思うのである。

 

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記事「自分の弱さと限界を認めることを考える人生の宿題」
2010.04.04 Sunday 08:09
 *牧会ジャーナル 2010年春号掲載記事


「自分の弱さと限界を認めること」を考える(6)人生の宿題

 

■ 人生の宿題を提出する


 人生の後半戦は、死と老化のテーマを自覚し、担うことだ。そのようにいうと、悲壮感を感じる方もいるかもしれない。確かに右肩上がりの拡大路線を「断念」することは、量的な成果を失う。いや自らの死を直視するなら、量的どころではない、自分のすべてが考えようによっては無に帰してしまうのである。


 
しかし、それでも人生の後半戦には、前半戦では味わえない喜びと豊かさがあると申し上げたい。中年期のただ中に今いる自分の、弱さと限界を認めることができるなら、いろいろな節目となるような経験がやってきて、質的に豊かな生き方に自分を導いてくれるのである。


 今回は、このような節目として、とくに深い経験である「人生の宿題」について述べたいと思う。まず、最初に、黒沢映画の原作としても有名な、山本周五郎の時代小説「雨あがる」を事例として紹介し、そこから考えていくこととする。

 

■ 雨にふりこめられる


 「雨あがる」の舞台は江戸時代である。主人公、三沢伊兵衛は、夫婦で放浪の旅を続けていた。実は彼は武術の並はずれた力を持っていたのだが、定職(仕官)にありつけなかった。なぜなら、人と争うことを過度に避けてしまうので、仕官のチャンスはあってもうまくいかず、それを逃していたのであった。


 そんな伊兵衛夫妻が、2週間以上の長雨のために、町はずれの安宿で足止めを喰らってしまう。天候のことなので、今後の見当がつかない状況で、宿泊の他の旅人たちの気持ちも苛立っていた。このようななかで、思いもかけず、伊兵衛夫妻は人生の宿題を突きつけられることになるのである。


 というのも、宿泊中の安宿で、ある年増女が悲鳴のような声をあげて、わめきだし、滞在客の一人の老人を勝手に泥棒と断定し、名指しで非難し始めたのであった。その部屋には10人ばかりの滞在客が一緒にいたが、ただ息をひそめるばかりであった。この女のあけすけで攻撃的な言動は、心優しい伊兵衛にとって許容できないものであった。このときのトラブルは、伊兵衛にとっては深く揺さぶられるものがあった。それはこれまでの人と衝突しまいとする彼のライフスタイルを揺さぶり、それで良いのかと問いただすものであったからだ。それは彼にとって人生の宿題を突きつけられた瞬間でもあったのだ。


 このように、人は人生のある時期、突然足止めをくらうことがある。それは、江戸時代の長雨だけでなく、現代でも、本人の努力ではどうしようもないような状況の中で、先に進むことを強制的に止められてしまうことがある。とりわけ人生の後半戦では必ず起こることと言って良いだろう。

 

■ とりあえずの解決


 
結局、伊兵衛は、安宿でのもめ事に割って入り、仲裁し、自分がなんとかするからと言って宿を出た。そして、4時間後、米屋、八百屋、魚屋、酒屋などを従えて帰ってきたのである。実は、武士としてはしてはならない、そして妻にはやらないと誓った賭け試合をして、宿で酒宴を開く金を稼いだのだった。伊兵衛の狙い通りに、宴会の結果、滞在客の気持ちはなごんだ。


 しかし、賭け試合にしろ、宴会にしろ、間違いなく反対するであろう妻には話さずに決めたことであった。誰とも対決せずに問題の核心をスルリとかわしながらハッピーエンドを狙うあたりも、伊兵衛らしい解決策であった。しかし、人生の宿題には、それまでの、その人らしい解決策は通用しない。それが通用するくらいなら、とっくに解決してきたであろうし、今あえて足止めをされ、雨にふりこめられる必要はなかったのである。

 

■ 内省からの急展開


 伊兵衛は、宿での宴会の翌朝まだ暗い内に、雨の中、宿を出た。近所の川に向かうのであるが、明らかに釣りが目的ではなく、宿から、すなわち妻から逃げ出すために出かけたのであった。彼は松林の中を歩きながら、妻の気持ちを推し量ったり、自分が賭け試合をした動機を分析したりし始めた。そして、自分の武士としての失敗の歴史や、それに連れ添ってきた妻の不遇な歴史を辿り始めた。彼は、自分自身がつくづく情けないと思い、べそをかき、ため息をした。


 
人は自分の弱さを真剣に振り返るとき、足止めをくらった人生が急展開する。伊兵衛の場合もそうだった。伊兵衛は、偶然、松林で、若い侍たちが争う場面に遭遇し、自分の武術にものいわせ止めさせたのであるが、それをこれまた偶然に目撃した、当地の藩の老職に気に入られ、トントン拍子に話が進む。ついには仕官の話が動き出す。それも殿様の武芸の教育係という大役であった。


 こうした順調すぎる展開に、伊兵衛はさらに自分に気持ちを見つめていく。


 すなわち自分や妻の願望を明確に意識するのであった。そして自分に「仕官」を強く希望する気持ちがあることを自覚し、言葉にした。これは画期的なことであった。なぜなら、長いこと妻との間では「仕官」の話はタブーになっていたのだ。あまりに度重なる失敗でお互いが希望を持つことを避け、できるだけその問題に触れないようにしていたのである。 しかし、今回は違った。彼は、ふがいない自分のこれまでの生き方を認め、妻に貧しさを味あわせてしまったことを認め、夫婦でちぐはぐになっていた「仕官」への気持ちを探っていくのである。いよいよ彼は人生の宿題を解き始めたのであった。

 

■ 人生のテーマ


 
ここで大切なのは、伊兵衛が、人々との素朴で平和な関係を大切にする生き方と、武士として精進し、出世していく生き方の、正反対の2つのテーマの双方が自分にあることを自覚したということだ。それまでは、前者の生き方ばかりを意識していた。だからこそ賭け試合などもできてしまったのである。


 しかし、今、伊兵衛は、平和の生き方を優先する生き方を保ちながらも、自分の中に出世を目指す生き方がわき上がっていることを深く自覚したのだった。また加えていうなら、妻も、夫が武士道を極める生き方をしていくことを望みながらきたのであるが、同時に庶民を助け、喜ばす生き方の良さについても自覚しつつあったのであった。二人ともそれぞれ身につけてきたテーマは対照的であったが、ここにきて統合に向けて動き出していたのである。

 

  人生の宿題の答え方


 私たちも、自分自身の中で、正反対の人生テーマを持つことがある。多くの場合は、一つのテーマに邁進しているのであるが、ある時期、それとはまったく正反対のテーマがわき出てくることがあるのである。たとえば、子育て中心の主婦業をこなしている女性が、ある日起業家の夢を抱く。あるいは、やり手のサラリーマンが、田舎に引きこもって自給自足の農業を営もうと思う。そうしたことが起こる。


 
もう少し正確に言えば、起業家を夢見たり、農業を営みたいと思ったりする人たちは、突然思い起こしたのではない。もともと、そういう志向性を持っていたのであるが、人生経験を積む中で、子育てにしろ、会社生活にしろ、そうした生活をうまく進めるために、それに必要のないものを、知らず知らずのうちに切り捨ててきたのである。


 しかし、人生の後半戦に入り、行き詰まりを経験すると、切り捨ててきたもの(それもその人の本来の姿なのであるが)を拾い直し、もっと統合的な自分を作り直さなければならなくなるのである。それは難しい作業であるが、どちらの自分も本当の自分であるという感覚が持てるようになると(すなわち、二つのテーマが統合されると)その人の人生は豊かなものになり、深い人生に向かっていくことができるのである。


 だから、従来の自分の生き方も大切にし、新たにわきがってきた新しい生き方も尊重し、どちらかを選択するのでなく、双方のテーマがゆっくりと統合されていくのを待つことが肝心になる。人生の宿題の解答は、選ぶのでなく、統合することなのである。

 


 
さて、この人生の宿題というテーマは大きい。この統合の問題を中心に、続きをもう少し詳しく次号で述べていくことにしたい。

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つなげて生きる
2009.08.16 Sunday 20:25
 人は、バラバラになったいろいろな自分や自分の人生を、少しずつつなぎあわせながら生きている。時には、本人の自覚を超えて、つなぎあわせられながら生きている。それほど、いろいろな自分を「つなげる」ことは大切さ課題である。


 たとえば、あの時の挫折や失敗と、今の自分をきちんとつなげられているだろうか? 神を知らずに生きていたあの頃でさえも、そこには神がいて、それを良しとし、今に至るまでの物語がある。あまりに悔いの残る失敗の端緒にも、神のご計画が働いている。そのことをゆっくりと考えたい。


 また、自分らしい自分と、自分らしくない自分とを、つなげられているだろうか? 自分らしくない自分、と言っても、実は自分の一部であって、無視するわけにはいかない。自分では受け入れがたい自分を、受け入れていくことは成熟に至る作業となる。


 また、今の不完全な自分と、未来の希望に満ちた自分をどのようにつなげていこうとしているのだろうか。これは様々な時間の中にいる自分をつなげる最終作業である。実体のないバラ色物語にしないためには、やはりまず過去と現在をつなげてから取り組む作業なのである。


 さて、日々の生活もつなげることが大切である。たとえば、日曜日の自分と、月曜日の自分をもっとつなげられないだろうか? 日曜日の礼拝説教を、その週、多忙な生活の中で反芻することはかなり難しい。


 また、週のある時期、月のある時期、あるいは一年のある時期と、今日の私はつながっているだろうか? 時々の思い、時々の計画がどのように連なり、なんらかの方向に進んでいるのではないだろうか。


 様々な課題や雑用、様々なイベントは、互いにつながっているだろうか? あまりに多様で雑多な活動にも、すこし後ろに下がって眺めると、私にふさわしいレッスンやささやかな喜びが用意されているものである。


 さて、日常のつながりも大切である。たとえば、子としての自分と、親としての自分のつながりの姿をもっと自覚したい。また、仕事と、趣味や気晴らしのつながりももっと自覚したい。また、信仰者の自分と、一般市民としての自分のつながりにもっと誇りを持ちたい。


  
そして、自分の生と死のつながりも大切にしたい。たとえば、健康な自分と、病弱な自分とのつながりだってあるはずだ。ばりばりと生きていく自分と、死を静かに迎えようとする自分のつながりだってあるはずだ。そして、この地上で生きている自分と、地上の生涯を終え、天の御国で生きている自分も、必ずつながっているはずだ。そこは白紙の再出発でなく、地上時代の経験がつながるものがあるように思われてならない。


 このように、自分の中にある瞬間と永遠の狭間で、たくさんのものがつながる世界を体感していきたいものである。そして、それは何も大きな決断や修行ではなく、日常の些細なことから、自分をつなげていく作業の積み重ねのなかで得られるものであると思う。


(その後、クリスチャン新聞の8月30日号に「『つなげる』ことは大切」として発表)

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記事:「自分の弱さと限界を認めること」を考えるッ翡期のレッスン
2009.07.03 Friday 10:02
*「牧会ジャーナル」誌・2009年夏号(6月1日発行) 掲載
<本記事はいったんブログ掲載しましたが、掲載誌発売前は自粛すべきとの判断で、いったん削除し、今回改めてブログ掲載としました>


「自分の弱さと限界を認めること」を考えるぁ|翡期のレッスン

 

5つのレッスン

 かつて社会と教会には、人生の節目を体感させ、人の気持ちを賦に落とすような儀礼があった。しかし、現代ではそうしたものが希薄になっている。そのかわりに、現代人に「死と老化」を教えてくれ、より成熟したかたちで無力感の受容を促してくれる諸現象がある。以下にその主だったものをあげてみたい。


]型箸寮は

 人生後半戦になると、その人の親は老いている。その老身と丁寧に関わることで、自分自身の「死と老化」をより鮮明に意識することになる。また子どもたちも彼らなりの「死と老化」を考え始めるのである。


⊃Χ半紊諒儔宗転職

 職業生活でも、人生の後半戦で認識が変わってくる。職場で自分が活躍することから、後輩を育て、組織を整備し、新しい世代に継承していくことに力点が移るようになる。また、その延長上に転職が出てくることもあるし、たとえ同じ会社に属していても、転職に相当するような職能役割の変化が出てくることが多いのである。


子どもの問題化

 子どもの思春期危機の背後には、親の中年期危機があると言われる。自分自身のことでないだけに、子どもの問題化(非行化、学校不適応問題など)によるダメージは大きい。完璧な親という自己イメージを喪失するし、地道な人間関係や生活よりも生産性を重視してきた自分の生き方自体を抜本的に見直すことを迫られる。


た歓箸侶鮃問題

 背伸び・強行突破の生き方を強烈に続ける人の気持ちには、「いざとなったら」「ここを頑張れば」といった自力本願的な独特の自信がある。ところが、いざ入院したり、寝込んだり、うつうつとした気分で何もできなくなったりすると、その人の頑張りの核の部分が麻痺させられた感じになる。自分自身の頑張りの白旗をあげさせられる最大の危機である。


タ閥瓩平佑箸了猜

  人生の後半戦にはいると、当然ではあるが、身近な人との死別の機会が増えてくる。それは親族や親であったり、友人、知人、教会のメンバーであったりする。その亡くなった人の人生を、生前の交際や、その後の葬儀や関係者との交流を通して思わされることになる。死の持つ悲しみ、厳粛さ、そして信仰ゆえの希望をまざまざと目の当たりにする。人生は有限であることを再度認識し、たとえ死の宣告を受けたとしてもこの人のような前向きな生き方があるのだとか、逆に、この人のような死の迎え方をすることは自分としてはどうだろうかなどと考えさせられるのである。「死と老化」の学びとしては一番の劇薬的なレッスンである。

 


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記事:「心理臨床家は、いかに育てられ、いかに守られているか」
2009.07.03 Friday 10:01
 *「牧会ジャーナル」誌・2009年夏号(6月1日発行) 掲載
<本記事はいったんブログ掲載しましたが、掲載誌発売前は自粛すべきとの判断で、いったん削除し、今回改めてブログ掲載としました>

「心理臨床家は、いかに育てられ、いかに守られているか」

 私は臨床心理士として、様々な人とお会いし、また様々な事態に関わる仕事をしている。周囲からは、大変でしょうねとよく言われるが、おそらく多くの方々が想像するよりは、守られている世界にいると思う。臨床心理士の仕事の世界には、いろいろな仕組みがあって、ベテランカウンセラーであろうとも、育てられ続け、守られ続けているのである。


 逆に、臨床心理士の立場から牧師業界を見ると、神学校とインターンを終えると、あとは個人の情熱と資質で頑張りなさい、といったかなり大胆な放任主義があるように見える。

それはシュワルツネッガーが、単身戦地に赴き、素手で敵の軍用ヘリコプターに立ち向かい、最終的に勝ってしまうような映画を地でいくようなものである。


 もちろんそこには、神からの召命を受け、神から養い育てられ、守られるという信仰があるわけであるが、なおそれに加えて、牧師を長期的な戦略で育てる仕組みや、守っていく仕組みを十分に検討すべきではないだろうか。


 本稿では、臨床心理士の育てられ、守られる仕組みのいくつかを紹介することとする。ただし、牧師の仕事と心理臨床の仕事は本質的に大きく異なるものであり、また必ずしも臨床心理士業界の仕組みが優れているとも言えない。しかし、些細な仕組みや考え方からも、キリスト教界のヒントやアイデアにつながることもあると考え、あえて紹介する次第である。

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記事:「自分の弱さと限界を認めること」を考えるぁ|翡期の本質
2009.02.11 Wednesday 09:31
*牧会ジャーナル2009年春号掲載。しばらく中断していた連載の第4回。ここから数回にわたって、中年期の安息について書く予定。その冒頭は、「立ち止まって考えるクリスチャンライフ」(本ブログの連載で、今は非公開)の一節と重なった。毎度、同じ切り口の記事ばかり書いている(能力的な限界)。


「自分の弱さと限界を認めること」を考える(4)中年期の本質

 

■ 人生を振り返る


 自分の弱さを知ることは実は難しい。当人にはなかなか実体が見えてこないことが多いからだ。そこで、前回まで「
SOSサイン」をとりあげ、現時点での自分の状態を洞察する具体的方法を解説した。


 今回からは、逆に、今の自分を、自身の人生全体の中で捉えることで、自分の弱さを歴史的に理解することを考えていきたいと思う。知らない街を歩くとき、「
SOSサイン」は一歩先の足下を照らす灯りだとすれば、今回から扱う内容は、「街の地図」にあたるかもしれない。


 さて、それでは自分の人生を振り返るのは、自分の育ったこれまでの経験を、特に家族関係を中心に扱うことが重要となる。ただし、家族関係と言っても、「きょうだい関係」から振り返るのが有益だと思う。なぜなら、私たちの「自分の弱さの取り扱い」についてのスタイルは、「きょうだい関係」に影響されているからである。人は、競争や敗北の仕方などを、親の愛情と承認を獲得するために、きょうだいと争って身につけていくのである。


 しかし、この「きょうだい関係」については、本誌
2004年冬号で「きょうだい関係を読む」と題して、その骨子をすでに述べているので、ここでは省略したい。

 

■ 今の人生の点検


 
それでは、自分の人生をふり返るのではなく、今の人生を点検するには、どのような観点が必要であるのか。


 それは、人生の発達段階のどこに自分がいるのか、という理解の仕方である。とりわけ、人生の折り返し地点である中年期の理解を深めておくことは重要なことである。

 

 

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原稿:「「悪」に陥る心理 〜犯罪カウンセリングの経験から」
2008.11.27 Thursday 09:56
*「信徒との友」09年2月号(特集:悪より救い出したまえ)1月10日発売に掲載 

「悪」に陥る心理
  〜犯罪カウンセリングの経験から

  私は、臨床心理士として犯罪を犯した人のカウンセリングを担当することがあります。それも信仰を持ちながらも犯罪の道に進んでしまった方の場合もあって、人が善を求めながらも「悪」と無関係でいられないということをカウンセラーとして考えさせられています。
 ここでは、犯罪を犯したAさんとの面接の経験から、人と悪との関係について考えてみたいと思います。

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「違和感」と「異常な多忙さ」を考える
2008.10.18 Saturday 12:17
 クリスチャン新聞オピニオン欄(2008年10月下旬)のために、記事を書いたもの。韓流ドラマについて書こうか、牧師不祥事問題について書こうか、ぎりぎりまで悩んで、後者に。

 私は心理臨床家として、牧師の不祥事に関わらせていただくことがある。その中で、そうした事案が形の上では過去のことになったとしても、きちんと振り返り、教訓化していく作業の重要性を感じる。事実、それを実行し、積み重ねている教団もある。



 「教団としての取り組み」などというと、どうしても組織、制度的なものを整備していくことに力が向かう。それも大切なことであるが、深刻な事案ほど、想定をはるかに越えて起きてくる。だから、常識から外れた新たな事案にその都度、どう理解し、どう対処していくのか。あるいは対処し得たのか。そこに力を向け続けていく姿勢が必要なのである。たとえばそれを事例検討会や事例集に残し、たとえば神学校教育に反映させたりすることができるとすれば、それは良い意味で大きな影響をもたらすであろう。



 さて、ここで、私が各個事案に触れて、考えさせられていることのいくつかを述べたい。


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