奨励:神の子となる〜教会周辺者・にわかファン・永遠の求道者
2017.07.03 Monday 16:57

6/20 全学礼拝 奨励

 

*準備はあまりすすまず、無難な内容にしました。

 

「神の子となる」

ガラテヤの信徒への手紙/ 03章 26節
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 

 

要旨

 

1.はじめに

人が信仰を持つとき、ドラマチックな回心を期待していることはないか。
ドラマチックと言わないまでも、素朴な先入観がある
しかし、いろいろな神との出会いがあるし、いろいろな回心があっていい。

熱く涙をもって感激の中で信仰を持つ人もいる。
激しい問題状況の中で走り回る中で、信仰を持つ人もいる。
苦しみに苦しんで信仰にたどり着く人もいる。。
そして、慎重に、時間をかけて静かに信仰を持つ人もいる。

とくに日本人の場合、時間をかけてクリスチャンになるパターンは多いように思う。

 

 

2.信徒でも求道者でもない人。

さて教会には、信仰を告白して会員となっている「信徒」がいる。
そこまでいかないが信仰を求めている「求道者」がいる。
しかしさらにその周辺には、教会に親和し、時に礼拝に行くかもしれない人たちがいる。「教会周辺人」と呼ぶ社会学者もいる。
さらにもうすこしライトに教会に素朴な関心を持ち、基本教会に行こうという思いはまだない人たちもいる。「にわかファン」と呼ぶジャーナリストもいる。
また、毎年今年こそは洗礼を受けようと考えながらも、もう10年たってしまった人もいる。私は「永遠の求道者」「長すぎる春を持てあます婚約者」と呼んでいる。
いずれにしろ「教会周辺人」「にわかファン」「永遠の求道者」の人口は莫大であり、あまり取り上げられてこなかった領域である。


そして、そこからある人はクリスチャンになり、ある人は一生そのままで終わります。
そこに何が起きているのでしょうか。

そこに何が邪魔しているものついてかんがえてみたいと思います。

 

 

3 何が邪魔をしているのか

私は、これまでいろいろな方のお話をうかがってきましたので、
そこで考えさせられたことを中心に3つのことをお話ししたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)ひとつは、すでに申しましたが、一人一人の個性があるので、回心もまたいろいろな回心があるのだ。聖書に従っているのであれば、こういう回心ではならないということはない。
劇的に、一瞬のうちに。というイメージがある人がいたら、そういう回心もある。しかし、地味に、静かにクリスチャンになる人もいると。

(2)二つ目は、きよい生き方、という問題
クリスチャンになろうかと考えたときに
清くなってから、良い人になってから信じる
自分は今信じても、良い人にはなれない。

そう思って躊躇する人は多い。

しかし、私たちの心の動機には、混ぜ物が含まれている。
キリストの救いの福音を聞いたときは、素直に自分の罪を言い表し、救いに入れられた。
このことはまぎれもない聖書の約束であり、事実である。
しかしそのときに悔い改めた自分の罪というのは、その時点で理解できた物を認め、言い表したに過ぎない。信仰者が成長するにつれ、新たに光に照らされて。新たな混ぜ物が見つかってくる。それをそのたびごとに受け止め、認めていくのである。

このことをおろそかにすると、クリスチャンになったのに
清められないのはおかしい、と失望感に
あるいは新たに見つかった混ぜ物は見なかったことにしようと やりくりが働いておかしな話になってくる。

こうしたことはクリスチャンの人生の決断においても同じことが起こる。
進学、就職、結婚
純粋に決断しても混ぜ物がある。神は百も承知でそうした決断をよしとしてくださる。


自分の無力感を認め、受け入れるかどうか。
言い方をかえれば、ぴかぴかの100点の人になることを辞め、現実の自分を見ることにするのである。

(3)みっつは人生は冒険である。とくに人間関係は冒険。

クリスチャンになろうかと思う人が、
わずかな理解で決断は無謀だ。10年20年くらいじっくり勉強するのは必要。
疑問を完全になくしてからだ。

→しかし結婚や恋愛は、10年観察しない。でもえいっと飛び込む。
関係性の中に入ってく。
信仰も同じ。

 

クリスチャンが自分の信仰に疑問がない、ということはまったくない。

信仰とは、ある人は
「人となった神(イエス・キリスト)と、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むこと」だ、と。

いま時間をかけている人は意味ある時間。

 

ただ、聖書の超基本的な学び、導いてくれる人や教会との出会い、「追い求めよう」「飛び込んでみよう」という素朴な気持ち、自分の人生の転換点を迎えているという自覚。これらのいくつかがそう思えるなら、そろそろ冒険の決断に出ても良いのではないか。

 

 

4 神の子となる

聖書には、信仰をもった人を神の子とたとえる。(ガラテヤ人への手紙第3章25−26節)
また文脈が違うが、生まれたばかりの赤ちゃんにたとえることもある。(汽撻謄蹌押В押

そう考えると、こういうイメージが描ける。
神の家族の家のすぐ近く、玄関、庭でぶらぶらしている。
家の中の楽しそうな笑い声や料理の匂いがつたわってくる。
そうした気配をうらやましく思いながら、ぐるぐる回り続ける。
しかし、家の中には入らず、家族の一員にならないまま。

もし自分のいま理解している自分の罪を認め、神から離れて生きてきた身勝手な生き方を認め、キリストによる罪のあがないを信じると、神の子となる。そして教会につながり、神の家族の一員となる。
たとえそれがぼおぼろな回心であって、いわば未熟児のようにして生まれたとしても。
生まれてしまえばこっちのもの、
養われ、少しずつ成長し、体重も増えていく。
うらやましく家の周りをぐるぐる回り続けても、子どもにはなれません。

そこにはすごい違いがうまれてしまいます。

 

 

5 まとめ
今日、考えてみてください
クリスチャンになるには
1 いろいろな個性がある
2 ぴかぴかの100点の人になってからでなく、不完全な今のままでいい。
3 神の子として生まれ育つことが大事。家の外をぐるぐる回ることをそろそろ考え直してみないか。

 

以上。時間は10分。

| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書の人物に、美男美女が多いのはなぜか(要旨・後半)
2016.06.14 Tuesday 10:43
■聖書の人物に、美男美女が多いのはなぜか
1サムエル記 16:12

要旨・後半

(5)美の恒常性?
顔が神への応答であり、美しさは神さまとの相互作用の中で形作られるとするなら、
美は永久不変ではない。
サウルは神から離れ、美男ではなくなった。エステルは命賭けで神に従い、美女の度合いがアップした。聖書ではそこまで書いていないので、ここは個人的な見解。

(6)問いかけ
さて、今日の話を閉じるに当たって、
2つの問いかけをしたい。

第一の問いかけ。
聖書で一番の美貌の持ち主は?

御子なるイエス・キリストでしょ。
これはまちがいない。

ところが、そうではないと真っ向反対の記述がある。
イザヤ53章。
2節。彼は「見るべき面影はなくの輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と。
この53章は、キリストが人として地上の生活を送り、ついには十字架にかけられる姿を預言した箇所。

第二の問いかけ。
このときなぜ、キリストの美貌が剥奪されたのか。
神との交流が美の本質だとするなら、
このときのキリストは、神との交流をたたれ、神から離れた、弱くて孤独な人間になられたことを示している。
これは「わたしたちの背き」「とが」のためであった。
キリストが人の罪の身代わりになるためには、美貌も含め、神との交流を失う必要があった。
キリストの受けた懲らしめ(十字架の処刑)によって、わたしたちに平和が与えられ、また癒やされた、とある。
あなたはこのことをどう受け止めるだろうか。

(7)まとめ
聖書には美男美女が多く登場します。
しかし、そこで描かれているのは、
生き方全体としての美しさであり、印象としての美しさです。
そして神からの問いかけへの応答としての美しさです。
これは、自分の弱さ、寂しさを認め、信仰による平和や癒やしを求める人に用意されているものでもあります。


■関連した記事
人の顔が輝くとき(礼拝奨励)
http://fujikake.jugem.jp/?eid=171

人の顔が和らぐとき(礼拝奨励)
http://fujikake.jugem.jp/?eid=193
 
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書の人物に、美男美女が多いのはなぜか(要旨・前半)
2016.06.11 Saturday 09:59
聖書の人物に、美男美女が多いのはなぜか
1サムエル記 16:12

要旨・前半

(1)導入・学生時代のハプニング
私の大学時代。教会の大学生会で毎週、聖書研究会があった。
ある日の会で、1サムエル16章が取り上げられた。
預言者サムエルが、あたらしい王となるべき人物。ダビデを見いだすくだり。
最初サムエルは、人間違いをしそうになる。
神さまはサムエルに警告する。
7節。容姿や背の高さを見るな。人はうわべを見るが神さまは心を見る。
なるほど。もっとも。
しかし、そのあと見いだしたダビデも、結局、姿が立派でハンサムだった。
12節。
その聖書研究会は紛糾?した。オカシイのではないか。
私も思った。聖書が美男美女優遇だとするとゆゆしき問題。
それにしても聖書には美男美女が登場する。
ヨセフ、サウル、アブシャロム、エステル。

(2)美男美女の本質
雅歌4章には美しい女性の描写が詳しく記述されている。
具体的な聖書の美人像を頭の中で再現してほしい。
「目は鳩」
「髪は山羊の群れ」
「歯は雌羊の群れ」
「くちびるは紅の糸」
「頬はざくろの片割れ」
「首はやぐら」
「乳房は双子のかもしか」
どうか。首がやぐらのようだとかなりインパクトがある。
ずいぶんシュールな美人像ができあがる。

私は思うのだが、きっと美人の首は、やぐらの形である必要はなかった。
当時のやぐらが示す「豊かさ」のときめくような感じが伝われば良かった。
旧約聖書に登場する美男美女の褒め言葉は、すべて言葉の背後にある生命感であったり、清らかさであったり、まぶしさであったり、躍動感であったり。そういうものが伝われば良かった。

(3)発想の転換
私たちは発想の転換をしなければいけない。
外観と内面といった分け方をすること自体、限界がある。
Tボーマンという神学者は、ヘブライ民族の特有の認知のあり方を、
外観と内面を区別せず、統合した「印象」と呼んでいる。

美しさの本質は、光、香り、火、声、味のような「感覚」にある。
だから聖書の人物は、容姿でなく、活動性や卓越性の感覚を問題にしている。

(4)観相学
観相学という古い時代の学問がある。
この分野でも、ヘブライ人の研究者が活躍している。
マクス・ピカート。彼は「印象」の世界を知っていた。
彼は現代の美男美女評価を批判する。そして人の顔の美の正体を
見抜く。彼の言葉を二つ紹介する。
「人間は戦りつなしに誰かひとりの人間の顔を眺めることはできない。なぜなら、顔はなによりもまず神によって眺められるために存在しているのだからである。」
「人間の顔は、人々にというよりも、むしろ神に対して捧げられている。人間の顔はなによりもまず神への返答である。」

美貌の本質をつきつめていくと、神との関係論になっていく。
美貌だけでなく、
人が美を感じるすべてのもの
美術、音楽、なにもかもが、
神さまとの人格的な相互作用のなかで発露するもの。

(後半につづく)
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
よい管理者として
2015.06.16 Tuesday 22:36
善い管理者として

「あな たがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い 管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(1ペトロ4:10)

【1.イントロ】
自分が熱心に取り組んできたものがあるとします。
勉強でも趣味でも仲間内の活動でも。かまいません。
その自分のやった結果をどう評価するでしょうか。

私たちはつい両極端にふれてしまいます。
ひとつは、うまくできたと大騒ぎします。傲慢になり、自分の力に酔いしれます。そこには謙虚さがありません。

もうひとつは、うまくできなかったと落ち込みます。悲観的になり、自己卑下します。そこには前向きな気持ちがありません。
この2つは正反対の反応ですが、どちらもそれだけですと問題です。

【2.宮本茂さん】
同じことを、宮本茂さんが「謙虚と自己卑下」と言う言葉で発言しています。
彼は、任天堂のゲームクリエイターであり、任天堂の代表取締役専務。
ずっと開発現場で成功し続けた人で、『マリオ』や『ゼルダ』の生みの親でもあります。
その彼が、会社の新人教育に関連して、ある対談でこう言っているのです。
(読み上げる)
自分のやった結果を
「謙虚に受け止める」というのと
「必要以上に卑下しない」という両方ができてないとダメですよね。
自分がやった結果に対しての距離感というのかな。
そういうのってすごく大事です。


するどい指摘です。
繰り返しになりますが
わたしたちは、つい傲慢になってしまったり、
必要以上に何もできないかのように振る舞ってしまったり、どちらかに偏ってしまうのでないでしょうか。
どうすれば両極端の反応にならずにすむでしょうか。
どうも宮本さんはその解決法についてまでは明言していないように思います。

【3.聖書の解決法】
今日の聖書の箇所には、そのことを解決するポイントが記されています。

まず「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっている」とあります
たまものとは才能と言い換えて良いと思います。
私たちそれぞれ違った個性と才能がありますが、それは神から授かったものだというのです。
そして「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かし」なさいといいます。才能は預かって管理をするのだというのです。

神を信じる者にとって、成功も才能も神様が与えてくださったもの。
そのように考えられる人は強いです。成功しても自分の手柄のように思わないですし、失敗しても変な自己卑下に陥らないですみます。まさに正しい距離感を持っていられるのではないでしょうか?
今日の聖書箇所にはそう書いてあります。

【4.もうひとつの聖書箇所】
もうひとつの聖書箇所をみてみたいと思います。
マタイ福音書25:11〜30に、有名なイエスのたとえ話がある。
(開かなくてもけっこうです)
金額を現代の日本の円に、おおざっぱに置き換えて、話の要約をしてみます。

要約:ご主人様と家来3人が登場します。    
主人が旅に出ます。留守の間、家来3人に大金を預けます。
家来Aには5億円、家来Bには2億円、家来Cには1億円、預けます。
5億円を預かった家来Aは、それを元手に商売をして5億円もうけました。2億円を預かった家来Bも、2億円をもうけました。AもBも、主人の資産を倍に増やしたわけです。しかし、1億円を預かった家来Cは、運用に失敗して叱られるのを恐れ、その1億円を地面に埋めて隠しておいたのです。主人はかなり日が経ってから帰ってきて、AとBについては「よくやった、これからも多くのものを管理させてやろう」とほめ、大いに喜ぶ。だが、Cに対しては「怠け者め、稼げないならせめて銀行に貯金しておけ」と厳しくしかり、預けた1億円を取り上げ、家の外に叩きだしてしまうのでした。

ここにもペトロの手紙と同じ考え方が示されています。
主人とは神、家来とは、私たち人間。
そして額は違いますが、ひとりひとりに神から預けられた賜物、才能があるのだというのです。また人はその託された賜物、才能を管理する責任があるというのです。

なかには、自分の才能を「乏しいもの」「つまらないもの」「劣るもの」と思い込んでいることはないでしょうか。でも、それは神から任されたもので、自分自身のものではないのです。神からもらったものを自己卑下してはいけません。一人一人、すばらしい才能を与えられているのです。

【5.付け足し 負け戦】
ここまでで言いたいことは述べました。才能は神様から与えられ、私たちはそれを管理する必要がある。そう言いました。
最後に、もう二つ、付け足したいと思います。

第一に、負け戦の戦い方です。
家来Cについて同情する点もあるとは思いませんか。
預けられた金額が少ない!。
主人を本当には信用していなかったわけですから、彼からすれば、あてにできるものがない。将来に希望がない。厳しい戦いでした。
そして負け戦の最後は、極端な方法をとっていきます。一か八かギャンブル的になるか、逆に回避的になります。土に埋めるのも回避的な方法です。

私たちも、人ごとではありません。
こんなにひどい状況に身を置いてしまった。活躍しようのない。マイナスに向かって大きな流れがある、そういうときがあります。それも長きにわたって、そうした状況が続くのです。

このような場合、自分の手柄ばかりを思っている人には出口がみえません。才能が自分の所有物だと考えている人は、成功しないと満足できません。だから負け戦は戦えません。
かたや才能が神から与えられると考えている人は、
負け戦にあっても、清く正しく負け戦を戦います。

【6.脱線。中外日報からの依頼】
すこし脱線しますが、<中外日報>という仏教新聞に、正しい負け戦というコラムを書いたことがあります。先方の記者が,私の個人ブログの中に「正しい負け戦」という言葉をみつけ、ときめいたというのです。
そのコラムはこう書きました。
(読み上げ)

  ▼”負け戦”(まけいくさ)にも、いわば正しい負け方と、正しくない負け方があると思っている。
 正しくない負け方というのは、勝ちにこだわって、一か八かの戦いを仕掛けることで、それでは本当に玉砕してしまう。
 正しい負け方とは、分別をもって、一歩一歩慎重に後退しながら、絶えずバランスの良い戦い方を心がけることであり、そうすることで、長い目で見ると、ダメージは最小限となり、体力を温存して、次の流れに備えることもできるだろう。
 私たちは、思うようにならない大きな流れの中にいるときは、しばらくは、正しい負け戦を戦っていくことを大切にしなくてはなりません。

【7.付け足し 仕えあうため】

さて、付け足しの2つめは、自分の才能の見つけ方です。
あなたはどんな才能を託されていますか?
意外とこれは難しいことです。
自分のことは自分が一番よくわかっているつもりでも、自分のことは案外見えないものです。
ペトロの手紙に「互いに仕えなさい」という言葉が出て 来ました。
才能というのは、具体的には、それを用いて互いに仕えることに使うのが本当の姿です。
自分のためではなく、誰かのために用いること。誰かを生かすために託されているものを生かすこと。です。そんな観点から自分の才能がなにかなのかを考えてみてください。
何億円もの才能を手にしながら、結局はただ自分のことだけを考えて自分を幸福にすることにだけに使おうとするなら、それは主人から叱られる家来と同じではないでしょうか。

【8.まとめ】
今日、3つのことを話しました。
ひとつは才能というのは神から託されたものである、ということです。
自己卑下せず、傲慢にならず、それを使うことが求められています。

付け足しが2つありました。第一に、負け戦に身を置いたときでも、冷静に正しい負け戦をおこなう必要があるということです。成功がすべてではありません。
第二に、才能は互いに仕えるために使う物だと言うことです。どうか、今日、自分の才能について考えるひとときにしてほしいと思います。
(終わり)
 
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奨励「失敗と言い訳」
2014.09.27 Saturday 00:55
*昨日は学内礼拝で、奨励(説教)が回ってきた。1年に1度のペース。

学内礼拝の奨励
「失敗と言い訳」
聖書; 箴言22:13
怠け者は言う。「外には獅子がいる。町に出ればわたしは殺される。」

1.はじめに
怠け者がいうセリフ。ライオンに殺されるから外に出られないというのです。ありえない、嘘のいいわけをつかっています。
だから、仕事をせず、家でだらだらしているのは、仕方がないのだというのです。
実は、私たちはどんなときにも、言い訳をしているのではないでしょうか。本人はいたって真剣に弁明するのですが、はたから冷静に聞くと、こっけいであったりします。

2.遅刻のいいわけ
有名なのには、遅刻のいいわけの自慢大会です。
実は遅刻の原因は、複雑です、
原因がひとつでなく、いろいろある。そのなかには、自分のせいもあれば、そうでもない場合もある。たくさんある原因、理由のひとつを、選ぶとき、身勝手な、なりふりかまわないいいわけが前面に出てきます。ネットをみると、遅刻のいいわけがたくさんでてきます。

(うそ)
‘擦如⊆蠢蠅鬚澆擦討ださいと頼まれたので、
宇宙人に誘拐されていたので
占いで、遅く出ろと出たので
(わがまま)
と鰻燭離札奪箸決まらなかったため
ゥ好なアイドルが夢に出てきたので、続きを見たいと思って
(ギャグ、言葉遊び)
Ε院璽織い抜岼磴┐董TVリモコンを持ってきてしまったため
遅刻の理由を考えていたため
(すこしわかる)
┘瓮ネを掛けていたのに、探していたため
(人のせい)
母さんが朝起こしてくれなかったから
(本質的、自己直面的)
結局、気の緩みがあったから
みなさんはどうでしょうか。遅刻でどんないいわけをつかったことがあるでしょうか。
遅刻にかぎらず、いろいろな失敗をしたとき、どのようないいわけをしているでしょうか。

3.カウンセリングと、いいわけ
カウンセリングでも、いいわけは大きなテーマです。そうしたいいわけを止めて、失敗した自分の弱さをうけいれるとき、生き方がかわるからです。ここでカウンセラーとして日頃感じる言い訳を2つにわけて紹介します。
それはアクセルを踏みすぎるパターンと、ブレーキを踏みすぎるパターンです。

3−1 アクセル型の言い訳。
これは自分の非を認めません。いちおう失敗したことは認めて、後悔するが悩まないのです。
とにかくなせばなる。挑戦すればよい。自分は成功する、たまたま失敗するのは、運が悪いから、他の人が悪いからだと考える。悩まないというのは、失敗の原因は、自分に、本質的な非を認めない姿です。
失敗の際には、自分の弱さを認めたくないので、ことさら強い自分をアピールしてきます。
本当は、自分の弱さを認めて、かつアクセルを踏み、挑戦していくのが理想ですね。
よく積極思考というのがあります。これも、現実を見ずに脳天気に挑戦していくのだとしたら、浅く未熟な生き方です。
成熟した積極思考は、足下もきちんちと見、厳しい現実を百も承知の上で、あえて挑戦していきます。
同じ積極思考でも全然違います。

3−2 ブレーキ型の言い訳。
一ひねりしたいいわけもあります。自分が失敗する前に、挑戦をやめる、また関わりをやめるのです。
人間関係であれば、相手に拒否される前に自分から先手を打って関係を切ろうとする。もたもたして相手に完全に拒否されて傷手を負うより、自分から関係を切って別れるほうがまだ耐えられる。こういう理屈です。
例)仕事で総じてうまく言っているのに、些細なことで(あるいは些細なこともないのに)辞めてしまう。
例) 恋愛。相思相愛の関係なのに、自分が振られることを妄想的に恐れて、自分のほうか突然別れ話を切り出す。

4 神の前での人の弱さ
どちらにしても、わたしたちは失敗したら、そこで自分の弱さを見る必要があります。自分のいいわけを認める必要があります。さきほど<いいわけを止めて、失敗した自分の弱さをうけいれるとき、生き方がかわる>と言いました。これは、より深いところでもおきます。弱さを認めることは、人との関係で行なわれます。より深い弱さを認めることは神の前でおこなわれるのです。神なしに生きるいいわけは、罪とも呼ばれます。
聖書でも「自分の罪を…言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を許し」とあります。
私たちは、心を探って、自分の弱さを、そして自分の非を素直に言い表すなら  …と。

5 おわりに
言い訳しないで挑戦する。自分で責任を持ち、ライオンのせいにしない人生を送る。聖書はそう勧めています。そして自分のほんとうにできない理由を認めたら、それは大切な財産となります。その自分の弱さを認め、神に祈れる幸いを覚えましょう、

 
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
学内礼拝説教(奨励)「道の光」
2013.10.01 Tuesday 21:43
 

 アウトライン

タイトル「道の光」 詩編119:105

1.夜道を長時間歩いた経験談
キャンパスから上尾駅まで、夜道を数時間歩いたとき、その暗さに驚いた。
自動販売機の明るさに救われた。

2.今日の箇所は、まさに「暗闇の中での、光、灯」が語られている。
もっとも、現代では、暗闇の道を歩くことはあまりない。街灯やネオンがあふれている。
しかし、心の世界を見るなら、「一寸先は闇」。

3.もし足下を照らす灯りがあるとしたら、私たちの人生の歩き方が変わってくる。
(1)一歩ずつあるけばよいと思うようになれる。一歩ずつ進むことで必要なことが刻々と見えてくる。サーチライトのような光は必ずしも必要ではない。
(2)状況は暗いままでいいのだと思うようになれる。暗い道を一瞬で明るくできない。暗い状況が変わらなくても、大きな挫折のわきにある小さな希望が見えてくる。大きな悲しみのわきにある小さな喜びが見えてくる。

4.それでは私たちに与えられている光とは何であるか。
それはキリストを通して与えられると聖書は教えている。(ヨハネ福音書8:12)
心の暗闇の根底には「死と罪」の闇が待っている。キリストはその闇から救い出してくださる光だと言っている。
キリストの光に照らされて歩む道(人生)は、今、自分がいるところを神によって与えられたと考えられること。すごいこと。

5.‘擦療喘罎鵬燭あるか、先々が見えていなくとも。
一気呵成に暗闇が晴れないとしても。
キリストの輝きは失われることがない。

6.ある被災地ボランティアの婦人が作ったコラージュ作品
暗闇の階段を、足下の小さな灯りを頼りに上っていく作品。




| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
説教:「ストレスに対処する秘訣」
2010.07.20 Tuesday 01:36
 「ストレスに対処する秘訣」(伝道礼拝説教)

聖書の箇所:ヨハネの福音書 6章16〜21


 今日の聖書の箇所は、イエスの弟子たちが、湖を舟で進むなか、おりからの風と波に翻弄される物語である。

 湖上の嵐は、突然に始まり、長く続く。そして弟子たちは苦しむ。これはまさに、ストレスに打たれ、人生の嵐に苦しむ私たちの姿をも表しているのではないだろうか。

 まず弟子たちは夕方から舟に乗る。この刻々と暗くなる時間帯の様子は、人生の後半を生きる姿を想起させるし、対岸に進むというのは、新しい働き、新しい旅に挑んでいく姿を表している。このようなとき、私たちはストレスをより感じるのである。また、そもそも舟に乗ったのは強いられてのことであり、舟は曲がりなりにも半分以上進んでいた。これは、人のせいで自分にしわ寄せがくることや、今更後戻りができないと感じることでストレスがより大きくなることを示している。

 では、このような激しいストレスの嵐に、私たちはどのように対処すべきであろうか。

 第一に、自分の勝手な解決イメージを捨てることである。実は、嵐にあえぐ弟子たちは、近づくイエスを幽霊だと勘違いした。弟子たちには、別の解決のイメージがあったのだろう。

 第二に、友情や絆を持つことである。イエスの「わたしだ」と語りかけは親しい関係の言葉である。一般的にも、友情や絆がストレスから人を守る最大の解決策だと言うが、それを突き詰めていくと神との絆になる。そして神との絆は、まず神のほうから話しかけてくださる関わりである。

 第三に、イエスを自分の心の大切な場所に迎え入れようとすることである。これは嵐に自分の限界を知らされ、自分の無力さ、弱さを認めた人だけが出来ることである。聖書は、神から離れ、自分の無力さ、弱さを無視して生きる姿を罪と呼ぶ。そしてそれを素直に言い表すなら神に赦されると言う。こうして、人生の嵐のなかでも、恐れるなと語りかけてくださるイエスとともに生きていくことができるのである。

(800字)

| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
人の顔が和らぐとき(伝道8:1)
2006.12.26 Tuesday 01:16
「人の顔が和らぐとき」

 顔というのは、非常に不思議な存在です。

 顔の不思議さは、見た目がキレイになったから美しくなるという単純なものではありません。同じ人でも、時期によって、状況によって表情は刻々と変わっていきます。

 恋をするときれいになる、オーラが出てくる、などと言います。
また、スポーツなどで優勝した瞬間などに、選手たちの喜びの表情をみると、その美しさに感動さえ覚えます。

 また、人は大人になったら自分の顔に責任を持つべきだ、とも言います。
この顔に責任を持て、といったのは、アメリカのフランクリンの言葉だったと思いますが、事務所の採用試験にやってきた男を不採用にした際に、あの顔では駄目だと言ったといいます。顔をみればその人のそれまでの生き様がわかるというわけです。

 さて、聖書では顔についてどのように教えているでしょうか。くるりん
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
人の顔の輝くとき(伝道8:1)新改訳版
2006.12.24 Sunday 15:08
「人の顔が輝くとき」(新改訳版)
            *同内容の投稿があります。引用聖書の訳が違うだけです。

 今日は人の顔の輝きについて、聖書から学びたいと思います。最初に2つにの質問をさせていただきます。

,海譴泙納分の顔がいちばん美しかった(輝いていた)のではないかと思う時を思い出してください。どのようなときですか。それはなぜだと思いますか。
△泙慎佞房分の顔がいちばん醜かった(輝かずにくすんでいた)のではないかというときも思い出してください。どのようなときですか。それはなぜだと思いますか。

 いかがでしょうか。この質問に対するみなさんのお答えを頭の片隅におきながら、話を聞いていただきたいと思います。

 さて、私は少し前まで、くるりん
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
人の顔が輝くとき(伝道8:1)
2006.12.24 Sunday 14:59
「人の顔が輝くとき」

 今日は人の顔の輝きについて、聖書から学びたいと思います。最初に2つにの質問をさせていただきます。

,海譴泙納分の顔がいちばん美しかった(輝いていた)のではないかと思う時を思い出してください。どのようなときですか。それはなぜだと思いますか。
△泙慎佞房分の顔がいちばん醜かった(輝かずにくすんでいた)のではないかというときも思い出してください。どのようなときですか。それはなぜだと思いますか。

 いかがでしょうか。この質問に対するみなさんのお答えを頭の片隅におきながら、話を聞いていただきたいと思います。

 さて、私は昨年の春までくるりん
続きを読む >>
| ふじかけ | 礼拝(奨励・説教) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
←back 1/1 pages next→
Search
Profile
Recommend
Recommend
Recommend
雨降りの心理学 雨が心を動かすとき
雨降りの心理学 雨が心を動かすとき (JUGEMレビュー »)
藤掛 明
雨の心理的イメージを鍵に、雨の降る物語を読み解く。カウンセリング論であり、人生論でもある。
Category
Archive
Latest Entry
Recent Comment
Recent Trackback
Links
Admin
Calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
記事分析
アート情報
Sponsored links
Mobile
qrcode
無料ブログ作成サービス JUGEM