連載:質問にこたえて
2006.12.06 Wednesday 21:40
背伸びと息切れの時代・第14話(最終回)
「質問に答えて」

 最終回までおつきあいいただき、ありがとうございました。今回は、非行問題について、よく受ける質問についてお答えします。

■ 非行の危険信号は?
非行に走る若者は、次々に多彩なエピソードを引き起こします。彼と関わる親やその他の大人たちは、非常な危機感を抱くことになります。しかし、非行には、反抗期という子どもから大人に向かう際の、健康な成長の性質も色濃く有しています。冷静に、非行の進み方をとらえることは意外と難しいものです。
 非行の進み方の外的な判断ポイントとして、「保護領域からの離反」を見ます。保護領域というのは主に親元での生活が大前提になっているかです。無断外泊が続いたり、いざとなったら寝泊まりできる不良仲間のたまり場などがあると注意信号です。次に、「不良集団への所属」も大きなポイントです。暴走族、地域の不良集団、暴力団など、凝集性のある不良集団の中や周辺にいるとしたら危険信号です。
 内的な判断ポイントについては、これまで連載で扱ってきたものです。将来の見通しがバラ色すぎることや、後悔するが悩まないことなどがそれです。
 よく、親への暴言や服装、喫煙など個々の荒れにばかり目が向いてしまい、生活全体の崩れについては鈍感になることがあります。親としては、二〇も三〇も子どもに止めてほしいこと、変えてほしいことがあるものですが、その中で特に優先度の高いものが何であるのか見分けていくことが肝心です。

■ カウンセリングを受けるにはどうすれば?
非行カウンセリングを受けるにはどうすればよいでしょうか。まず誰がカウンセリングを受けるのかという問題があります。多くの場合、本人にカウンセリングを受けさせたくても本人の抵抗があって成立しません。むしろ、非行の若者といかに関わるのか、親や関係者が相談室に行くことが一般的です。
 もう一つの問題として非行の相談を受けてくれる相談室を探すという問題もあります。非行は扱わないという相談室がけっこうあるからです。まず全国にある少年鑑別所には、任意の外来相談窓口がありますので、そこに電話で予約し、相談をする手があります(無料です)。同じように警察関連機関にも同様に無料の窓口があります。「少年補導センター」など、地域ごとにいろいろな名称が付けられています。
一般の心理相談室でも非行相談に対応してくれるところもあります(ただし有料)。探すには「臨床心理士に出会うには」(創元社)という本が便利です。そしてもっと便利なのが、まったく同じ内容を見ることのできるコンピュータのサイトです(www.jsccp.jpのページから検索ページに進むことができます)。相談にあたっての注意書きまであって親切な内容になっています。

■ 実際に相談を始めたら
実際に相談を始めたら、目の前の問題をどうするかと同時に、神様が今、非行問題を通して、親や関係者の生き方自体をも取り扱おうとされ、新しいことを教えようとしているのだということも考えてみる必要があります。非行問題とのかかわりの中で、指導者である自分が、自分の持つくせや歪みを点検し、成長していくことが必ず起こるからです。

■ 更に学ぶための図書
この連載と同じ視点で書かれているものとして、拙著「非行カウンセリング入門」(金剛出版)をまずお勧めしたいと思います。「現代の少年非行〜理解と援助のために」(荻原恵三編、大日本図書)も読みやすい好著です。
関連領域として、人格障害を扱った「パーソナリティ障害」(岡田尊司著、PHP新書)、ひきこもり・家庭内暴力を扱った「社会的ひきこもり」(斎藤環著、PHP新書)は良書です。また、依存領域では、ギャンブル依存を扱った「ギャンブル依存」(田辺等著、NHK新書)、アルコールを始め依存全般を扱った「依存症」(信田さよ子、文春新書)もお勧めです。

■ 最後に
最後に、信仰者の親として日頃から、気を付けていたいことがらについて触れておきたいと思います。
 まず、自分自身が、聖と俗、建前と本音の二元論にならないように、本音を表現し、交流できる人間関係を持つことが大切です。同じような問題を抱える人たちと互いに耳を傾け合うような関係が持てれば理想的です。逆にきれい事や理想論だけで済ませてしまうようなところがないか自己点検することも大切なことです。
 次に、親として、子にも周囲にも、頑張って努力する姿と、頑張らずにリラックスする姿の双方を示すことも大切なことだと思います。
聖書は、競技者に「賞を受けられるように」(1コリント九、二四)一〇〇%頑張って走れと語りますが、同時に、「競争は足の早い人のものではなく」、時と機会によるものである(伝道者九、一一)と一〇〇%神に委ねるセンスを問うているのです。

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連載:思い出したくない記憶
2006.12.06 Wednesday 21:39
背伸びと息切れの時代・第13話
「思い出したくない記憶」

 あなたには、人間関係で思い出したくない記憶がありますか。今でも悔やまれる失敗や不幸はないでしょうか。
 親であれば、これまでの子育てに際して、あのことは大失敗で取り返しがつかないと後悔することがあります。子育て以外でも、配偶者や親族、親友との関係で、あのことは忘れたいという思い出もきっとあるでしょう。もう今さら変えることはできないと恨み、苦しんでいる人もたくさんいます。
 これは子どもも同じです。親に向かって、あのときのあのことが赦せない。今の自分のうまくいっていない点は、全部、親にあるのだと猛然と抗議してくることがあります。それも、ある人には意外かもしれませんが、親への抗議は思春期だけの特権ではありません。社会人になって、中年になって、ささいなきっかけで、自分の年老いた親へのかつての不満を口にして、非難し始めることもあるのです。

■ なぜ人は過去を思い出すのか
それではなぜ人はわざわざ嫌な過去のことを思い出すのでしょうか。カウンセリングでは、その人が今あえて思い出したいことを(心の奥深いところの作業ですが)数ある記憶の中から選び出して思い出していると考えます。そしてそれは自分が自分に警告を発しているのです。たとえば、かつていじめられた記憶がある人がそれを思い出して辛い気持ちを味わうとします。しかし、それは同時に、その人が今現在、周囲との関係に置いて圧迫や疎外を受けて苦しんでいて、かつての記憶の中から今現在と同じような状況を選択的に想記し、今の自分に「気を付けないと、あのときのようなひどい目に遭うぞ」と叱咤激励や警告をしていると考えるのです。いじめの思い出は、今のつらい状況の原因という以上に、むしろ今のつらさの結果なのです。その証拠に、カウンセリング場面では、その人が変化、成長していくうちに、語られる記憶が変化しますし、同じ出来事なのに、見事に肯定的な要素が付け加わるようになります。
 ですから、たとえ過去の子育てについての後悔があったとしても、またたとえ子どもからの過去の子育てについての抗議があったとしても、実は、問題なのは現在なのです。今、うまくいっていない状況があるため、今の状態に警告を発するべく親も子も昔の記憶を総動員しているのです。ですから、過去を変えるのではなく、今を変えることを考えるべきなのです。たとえば、何事も消極的で逃げ腰の子どもがいるとして、親がそれに腹を立て、幼い頃にもっと厳しくしつけていたら良かった、と後悔しているとした場合、親自身が、今、大人の世界で逃げ腰にならず果敢に問題に取り組んでいる姿を子どもに見せることが肝心です。タイムマシンでかつての子育て時代に戻るよりはるかに子どもに影響を与えることができるはずです。

■ 一つの典型例
 ある人が子育てで後悔し、今の自分の生き方も肯定できないとすると、おそらく人間関係全般にしんどい思いをしている可能性があります。多くの場合、そこにはその人特有の密着的な人間関係があります。たとえば親にかなり期待され、相当を無理して頑張ってきた人は、それなりの実績を残し、「よい子」であるうちは良いのですが、それが続かなくなるととたんに親子関係が悪化します。早い場合には、思春期から、学校生活や学業で「よい子」を演じられなくなり、混乱し始めます。非行もその混乱のうちの一つの形として現れることもあります。しかし学校時代は順調だった人でも、職業や結婚・子育て生活の中で、自分の思うようにならない状況の中で失速すると、子ども時代の自分の育てられ方を思い出し、親への恨み辛みを噴出させることがあります。皮肉にも、そうした状態になったときには、たいてい身近な人間関係でもうまくいかなくなっています。親との関係で学習してきた密着的で、期待過剰な関わりを、身近な人にもぶつけてしまうからです。そういう人は自分の親を恨みますが、実は自分自身がその親のような役割を演じていることに気がつきません。そして、際限なく、周囲に対する甘えと恨みを出し続けていくのです。しかし、ここでも過去にさかのぼる必要はありません。過去を踏ん切り、今の自分の生き方を見つめ直すことが大切なのです。

■ 自問する
過去の思い出したくない子育てや人間関係の記憶に悩んでいる方は、次のような問いを自分に投げかけてみてはいかがでしょうか。
*思い出したくないあのことは、自分が思っているように本当に極端な形で起きたのだろうか。現象のある側面だけを誇張して見ていないだろうか。
 *自分が負担に思い、あるいは恨み辛みを覚えているあの人との人間関係は、適切な心の距離があるだろうか。かえって近すぎて(期待や甘えがありすぎて)混乱しているのではないだろうか。
 *自分は周囲の身近な人を本当に理解しているだろうか。相手を人格的な存在として見ているだろうか。自分の感情を中心に、自分の都合や思いを汲んでくれたかどうかで、あるいは自分の優越感、劣等感をどう扱われたかどうかどうかで、人を評価、理解していないだろうか。
もし祈り、聖書を読んでも、自己理解や内省につながらないように感じている方がいるなら、過去の嫌な記憶や今の困っている事柄を紙に書き出し、この自問を基に、ひとつずつ祈ってみることをお勧めします。
この一年のはじめに、思い出したくない事柄を、神様の前にあえて思い出し、吟味することは、けっして無駄に終わることがありません。
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連載:視野を広げる
2006.12.06 Wednesday 21:38
背伸び・強行突破と息切れの時代・第12話
「視野を広げる」

■ 視野狭窄
ボクサーは、試合中、完全な負け試合であっても自ら棄権するようなことはありません。相手の連打を受け続け、リングに立ち続けるのが危険であっても、けっして「自分が負ける」とは思いません。命がけで戦い続けます。ですから、規則では、本人以外の人が白タオルをリングに投げ込み、無理やりストップをかけられるようになっています。
 駅伝ランナーも同じです。競技途中、体調不調や怪我によって歩き始めるランナーがいます。しかし、彼らの頭の中では、前へ進むことしか考えていません。今無理をして選手生命がなくなろうとも次のランナーにタスキをつなぐことだけを考えます。ですから、監督がそのランナーの体に触れることで強制的に棄権させられるようになっています。
 しかし、白タオルを投げ込まれたボクサーも、体に触れられたランナーも、「ほっ」となどはしません。不本意なままに、戦い、前進することをいったんやめるのです。そのような判断力は彼らにはもうないからです。
これは、私たちが、背伸び・強行突破的に突き進む生き方に似ています。普段ならそうした意気込みは良い方向に働きますが、自分の実力を超えた苦戦が続き、もはや頑張るだけではどうしようもなくなったときには、あだとなります。視野狭窄とでも言えそうな状態に陥りますので、現在の状況から退き、発想を転換したり、まったく新しい解決策をとったりすることができなくなるからです。皮肉なことですが、頑張る度合いの強い人ほど、この視野狭窄状態に追い込まれがちなのです。
 たとえば、子どもの問題で悩まれている親の場合、まず子ども自身がこの視野狭窄状況にいます。そしてそのことに心悩ませている親もまた視野狭窄状態にいることが多いのです。こうしたときには、まず親自身が自らの視野を広げ、今何が起きているのかを冷静に眺めることから始めなければなりません。

■ 身近な人
そのためには、まずセコンドや監督のように、身近にあって私たちの生き方を心配し、激励だけでなく、いざというときに警告や制限を与えてくれる人を持つことです。多くの場合、家族がその役割を担うのではないでしょうか。しかし、家族の場合、ともに視野狭窄状態に陥ることがあります。また家族関係自体が苦戦の元凶である場合もあります。ですから家族と異なった立場から、助言を与えてくれるような人がいることはかなり有益なことです。友人、知人、親類、職場や地域社会のなかに、そうした人がいるかもしれません。また教会の牧師や信徒がそうした役割を担ってくれることもあるでしょう。どうしても心配な人は、カウンセラーなどの専門家に相談することも、今なにが起きているのかを冷静に知るためには手堅い方法となります。(第一四話で専門家への相談方法について扱う予定です)
 会うと心が落ち着いて安心できる。常日頃あなたの気持ちを敏感に察してくれる。個人的な気持ちや秘密を打ち明けることができる。・・・こうした人がいつも身近にいるとは限りません。しかし、そうした理想の人でなくとも、話をじっくりと聞いてもらうだけで、実は話しながら、自分の実情や限界に眼が開かれることがまま起きるのです。

■ 三つの質問
身近な人からの点検に加え、個人として、新しい視野を手に入れるにはどうすればよいのでしょう。
第一に、「例外」を探すことです。私たちは、問題を起こしている人を見ますと、いつも遊んでいる、いつも暴力を振るう、いつも反抗的であるなど、いつも問題を起こしているように思います。しかし、印象はそうであっても、二四時間、三六五日、問題を起こしているわけではありません。実際はどのような問題を起こしている人にも健康で前向きの部分が必ずあり、遊ばずに過ごしたり、暴力に訴えずにすんだり、素直に応じるときがあります。そうした例外を探し、そういうときにはいつもと違うどのような状況や刺激があるのかを考えてみることが大切です。そこから新しい手がかりを見つけることができます。
 第二に、「もしも」を考えてみることです。私たちは、解決に向けて、本当はいつも多くの選択肢を持っているのです。しかし、多くの場合は、そうした選択肢を真剣に考えることをしません。むしろ、あれかこれかといった二択で考えてしまいます。ですから、内心これはありえないと思っている選択肢について、「もしも」と具体的に想像してみることです。現実的にじっくりと考えてみると、実はそうした選択もあり得ることがわかってきます。広い選択肢をたえず考えられるだけでも、その状況に冷静に対応している証しになります。
 第三に、物事の肯定的面を積極的に見つけてみることです。いっけんマイナスの出来事、失敗、挫折であっても、そこには肯定的な面が必ずあります。完全な成功や完全な失敗というものはそうはありません。多くのものは、一〇〇点ではなく〇点でもなく、その中間の出来であるのです。
 子どもの問題行動もまさにそうした性質が色濃くあります。そして問題行動が反復され、問題が深刻化するときというのは、問題を起こす子ども自身が、実は内心自分の失敗や劣勢を過剰に受けとめて、いちかばちかといった玉砕型の姿勢を強めているのです。ですから肯定面を見つけるというのは、親子共々、絶望と玉砕の生き方を和らげる効果があります。ただし、子どもの言動に肯定面を見つけるというのは、大人が本心からそう思えることでなければ、戯言や「よいしょ」で終わってしまいますので注意が必要です。

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連載:権威と枠組み
2006.12.06 Wednesday 21:33
背伸びと息切れの時代・第11話
「権威と枠組み」

■ 少年鑑別所の非行少年
 かつて私が少年鑑別所に勤務していたころ、多くの方からよく質問を受けました。それは、反抗的で乱暴な非行少年たちと関わることに苦労が多いのではないかというものです。もちろんそうした少年もいないわけではありませんが、それは例外的だと思います。実際、多くの少年たちは施設に収容されると数日でおとなしくなっていきます。その変貌は劇的なほどです。荒れ狂った顔から、素直で幼い顔に変わっていきます。けっして施設側が厳しい圧力をかけるわけではないのです。ただし、施設生活の背後には、法的に身柄を拘束しているという厳とした枠組みがあります。また、非行については、法を犯したという言い逃れられない現実があります。禁止されていることを勝手に行えば、職員から言葉で必ず厳しく責められます。少なくとも、譲れないことは決して譲らないという職員の気概が強くがあります。そうした事柄が彼らに大きな影響を与えていくのです。
 カウンセリングでは「受容」と「対決」という二つの大切な要素があります。愛情と権威と言い換えてもよいと思います。少年鑑別所などでの指導や面接は、いわば受容しながらも、譲れない枠組みは決して譲らないという「対決」の要素が息づいているのです。少年たちからすると、踏み越えられない枠が有形無形にあるような感じを抱いているのだと思います。(ちなみに、聖書では「(子への)懲らしめ」(箴言一九:一八など)が奨励されていますが、それはこの「対決」要素を強調したものであると思います。)
 こうした環境の中で、非行少年たちの気持ちがかえって安定し、いきがりやおちゃらけが和らいでいくのです。こうした変化はけっして猫かぶりのような意図的なものではありません。もう少し深い心の次元で起こっている現象だと思います。いわば物理的にも心理的にもまた社会(法律)的にも枠組みができたことで、無秩序で放逸に動き回っていた彼らに足場が与えられ、集中力と安心感が回復する過程であるのです。言いわけし、他罰的に言いつくろう余地がなくなり、動き回ることを断念し、立ち止まる経験をし始めるのです。
 もっとも、少年鑑別所を出て親許に帰っていく場合に、権威と枠組みをうまく設定できないと、比較的短期間に再びかつての無秩序で放逸な生活に戻っていく場合も少なくありません。やはりここにも同じ事情があるように思えます。

■ 親としての枠組みを
それでは、法律や司法機関とは無縁の場合に、私たちはどのように権威と枠組みを意識し、用いればよいのでしょうか。
 まず、日常的に彼らと接する親や教師によって枠組みが強調されることが第一歩になります。ここでは親の場合について考えてみましょう。
 まず両親が話し合い、親として譲れない限界を設定します。子どもに対する改善要求はたくさんあるかもしれません。しかし、ここでは、一つか二つの絶対に譲れない線を引きます。たとえば、喫煙、粗野な言葉遣い、髪の脱色、夜遊び、寝坊、学校さぼり、喧嘩、携帯電話代の支払い、奔放な異性交遊など、二〇以上の早急に改善させたいものがあるとしても、その中で最優先事項は何かを親として考えておくことが重要です。あるご両親は話し合いの末、最終的に、法律に違反する行為と、朝帰りについて、譲らない枠とすることにしました。また、両親が決めた限界線についてあらかじめ両親から子どもに説明する機会も持ちました。そして、それまで、家庭での指導の八〇%以上が、自宅での喫煙と親への粗野な言葉遣いについて、母親がその都度、しかりつけることに使われていたのですが、それ以後は、限界線については父親も一緒に警告や叱責を行い、ほかのことについては逆に許容することになりました。すぐに影響が現れたわけではありませんでしたが、このご家庭では、指導の土俵作りができ、それまで親自身もなにが起きているのかわからなくなるくらいの混乱した喧噪状態を脱することができました。
 
■ 自分を超えたものへの感性
 しかし、譲れない枠組みを意識する・させるというのは、テクニックではありません。大人である私たちが、なせばなる、時には自分の都合で多少の枠は外れてもかまわない、などと考えて生きていると、本当の権威を意識することができません。そうなると、ついつい自分自身が権威者となって相手を押さえ込むことばかりに気が向いてしまいます。枠組みの背後にはその人をも支配するような権威が必要になるのです。すなわち、日頃の生活の中で、自分たち人間がいかにちっぽけな存在かを感じ、そして人の力を超えた偉大な存在の力を謙虚に感じているかどうかが本当は大切なことなのです。
 大自然の威光。魂の世界の深淵さ。芸術の力。他者とのつながりの中で味わう深い感動。過去にあった自分の大きな精神的体験。心の内にいつのまにか芽生えてくる思いやりや奉仕の心、信じる心。そして本来それらの基盤を支えている、生ける神への思い。人により、チャンネルはいろいろありますが、こうした「自分を超えたもの」への感性が、私たちに、権威と枠組みを与えてくれるのです。
 非行ではありませんが、アルコール依存者のグループ療法の有名な運動では、一二のステップの成長プロセスを想定しています。その第一ステップでは、自分の力を超えた偉大な存在に身を委ねることが強調されています。これは非行にもあてはまるものです。


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連載:再び、家族のコンディション
2006.12.06 Wednesday 21:25
背伸びと息切れの時代・第11話
 「再び、家族のコンディション」

人は、幼い頃から「きょうだい」がライバル関係となり、競い合う経験をします。それは必要な経験ですが、家族に秩序がなく、親が子どもに一方的な期待の圧力をかけるようになると、過剰な競争心を生み出してしまいます。子どもによっては、それは思春期以降、暴走・脱線する背景になります。
 それでは、きょうだいのいない「一人っ子」についてはどのようなことが起きているのでしょうか。今回は、前回の続編として、きょうだいのいない「一人っ子」について考えてみたいと思います。

■ 一人っ子の経験すること
 一人っ子は、いつも身近に親や大人が存在していて、親の影響をストレートに受けやすいという特徴があります。いつもライバルのいない位置で、自分よりも上位の大人(主に親)の関心を集め、彼らを頼りとするからです。そのため依存的になりやすく、自分の無力さを示して、周囲から援助を引き出すスタイルを身につけやすいといわれています。
聖書に登場する族長ヨハネにも、そうした特徴がよく現れています。(ヨセフは一人っ子ではありませんが、兄たちとは年齢が離れ、父の愛情を一身に受けるなど、心理的には一人っ子の要素が強かったと思います)幼いころ、甘やかされたヨセフは、自分中心の「夢見る人」でした(創三七:五〜)。また野をさまよったときには、自分から意思表示するのでなくとも、他人から話しかけられ、細やかな助言を得ることができました(創三七:一五〜一七)。また非常に無防備なところもありました。兄たちが自分にかしずく夢を兄たちにいくども話して、彼らの神経を逆なでしています。一般に、末っ子も依存的であるといわれますが、末っ子は兄姉たちとわたりあって、戦略的に援助を引き出すのに比べ、一人っ子はそれがありません。したがって無防備というのは、同じ依存的であっても一人っ子特有の特徴と考えられています。

■ 一人っ子の可能性
 ヨセフのように甘やかされた子どもはいつまでも庇護され続けようとして問題を起こします。困難な状況ではへたり込み、問題から逃げ回ったり、誘惑者に無批判に同調するかたちで失敗をしがちです。しかし、一人っ子が訓練を受け、自立的な生き方を身につけるようになると大きく変貌します。ヨセフも、神の訓練の下、家族から離れ、自立し、他の主人に仕えたり、多くの人々を治める経験を通して、新しい人生が展開していきました。 新約の時代でも、預言者バプテスマのヨハネ(ルカ一〜、一人っ子)を見ると、依存性や無防備が、高次の自律性や純粋さに高められ、\嫻ご兇箚浜能力が高まり(創始者の資質)、妥協しない生き方ができ(使命感)、自分の弱さや限界に対する洞察も行われる(謙虚さ、ルカ三:一六)ようになっています。
ところで、私たちは、だれもが一人っ子的な問題を抱えています。まず第一子で生まれた人は、第二子が生まれるまでは間違いなく一人っ子だったはずです。さらに、青年期以降、他のきょうだいが独立するなかで、親許に残っている人は、一人っ子的な位置に置かれることがままあります。ほかにも、ヨセフがそうでしたが、きょうだいの年齢差や性差の分布によっても、一人っ子的な位置に置かれることがあります。たとえ一人っ子でなくとも、私たちのなかの、あるいは子どもたちのなかの、一人っ子的要素を考えてみることは有益なことです。

■ 子の自立のために
それでは一人っ子的な生き方を身につけている子どもが、成長し、良い形で自立していけるようにするためには、親として、大人としてどのようなことに気をつけるべきでしょうか。
 その基本は、思いを言葉に出させることです。親として子の窮状や不安を「察してあげる」ことは大切なことです。しかし、同時に、援助・庇護を受け続けようとするタイプの子どもの場合には、どうしてほしいのかを言葉にさせていくことが必要です。他者とのバウンダリー(境界)を持たせるための第一歩にもなりますし、良い意味で、その後の戦略や交渉力を学ぶことにつながっていきます。
 また、親の側で即解決の答えを用意しすぎない、あるいは親の好みの答えを押しつけないということも同様に大切なことです。
 さて、子どもばかりでなく、親の側でも自己点検をしなければなりません。庇護を受け続ける子どもには、庇護を与え続ける親がいるからです。
 実は親の子への関わりには、子への愛情だけでなく、親自身のために子に支えを求めることが必ず入り込みます。そのため、自分を吟味するには、他の大人たちとの交流の中で、親である自分を客観視することが理想です。できれば同じ子育て経験中の、他の親たちと交流し、子育ての愚痴を交換できるような場を持つと、格段に自分たち親子のことが見えるようになるはずです。
 また、一方で、親自身は子育て以外に、自分個人の人生を考え、自分を支えるものを持つことも必要です。特に子の年齢が上がっていくにつれ、そうしたことが大切になってきます。時にはペットや趣味がそうした役割を果たすこともあります。地域社会の活動や奉仕、教会の集会出席も役に立つでしょう。しかし、これら自己点検の本質は、親自身の生き方がどのくらい真に自立していけるかということにつきます。
 思春期以降の子どもの自立と、中年期以降の親の成長(いわば第二の自立)とは、実は同時並行で進んでいくものだからです。

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連載─Э討離灰鵐妊ション
2006.12.06 Wednesday 17:10
背伸びと息切れの時代・第8回
「親のコンディション」

 これまで七回にわたって、非行少年のふるまいの裏側にあるものを見てきました。それは彼らの「背伸び・強行突破」の生き方とその息切れ状態についてでした。
 後悔はするが悩まない生き方(第二回)。
 地に足の付かない積極的思考(第三回)。
 自分の弱さを認めまいとして過剰に反応する姿(第四回)。
 こうした特徴はどれも、背伸びの息切れ状態にあって、ますますその傾向を強めるものですし、その挙げ句の果てに、つっぱったり、意地をはったりしながら、脱線して非行に至る姿をお伝えしたわけです。
 また、「おちゃらけ」(第五回)や「顔いろうかがい」(第六、七回)という生き方も、実は、この背伸びの息切れ状態としての性質がありますので、あわせて紹介しました。
 さて、これまでは、どのようなことが起きているのかを中心に見てきました。いわば「理解編」でした。今回からはいよいよ「解決編」となります。

■■ 理解するだけでも、
これから解決編をご一緒に考えていきたいと思います。しかし、まず最初にお話ししておきたいことがあります。それは、指導する親や大人自身のコンディションが大切だということです。これが今回のテーマです。
 第一に、これまで繰り返し説明してきたことですが、若者の言動の背後にある息切れ部分を、まずは指導者が理解するだけでもかなり違ってくるということです。新たなねぎらいと、不用意に刺激しない配慮が生まれ、微妙にかかわり方が変わっていくのです。
 実は、非行少年が背伸びと息切れの強力な悪循環を形成するように、親もまた、同じように悪循環を形成します。というのも、こどもが壁にぶち当たり息切れ状態になると、本人ばかりでなく、親のほうでも、「気のゆるみ」「努力不足」と見なして、叱咤激励をします。叱咤激励を受けた本人は、この事態を打開するために、従来以上にやみくもに頑張ろうとしますし、親も頑張らせようとします。その結果、本人の息切れ状態は深刻なものになっていきます。このようにして強力な悪循環が形成されていきます。ですから、もし親自身の、少年への関わり方が少し変わるだけでも、この悪循環が解きほぐされ、変化が生まれやすくなるのです。
 また、彼らの息切れを理解するといっても、それを口にすれば良いというわけではありません。彼らの感情を多少とも感じ取ることができるのであれば、それを言葉にしなくても(あるいは言葉にしないからこそ)不思議と相手に伝わり、相手との関係が変わっていくのです。

■■ 思いめぐらす
 第二に、指導者が自分の努力や情熱さえかければ、すぐになんとかなるはずだとは思わないことです。どのような問題であっても、この時期、この在り様で現れることには、意味があると思うからです。
 これまでの家族の歴史があり、本人の頑張りと息切れの歴史があるはずです。そこには、各人が良かれと思って行動してきた積み重ねがあります。ある時期は、ああするしかなかったという事情もあります。だから、いたずらにこれまでを後悔する必要はありませんし、また頑張って一気呵成になんとか挽回するのだといきり立つ必要もありません。それでは新たな背伸び・強行突破の息切れ状態を生じさせるばかりです。もし自分に誤りや失敗があったと思うのなら、それは神の前で悔い改め(時に人の前で告白し)、その後は、むしろ、自分に与えられたこの問題には、さらに新しい意味があるのかもしれないと思いめぐらすことが大切だと思います。動き回らずに、瞑想するような心持ちです。あなたが信仰者であろうとなかろうと、背後には必ず神の計画が働いているからです。たとえば、家族の成長のために、あるいは親や大人自身の自己点検のために、そして自分の思惑を超えた人生の摂理を感じるために、絶妙な立ち止まりの機会を与えられることがあるからです。

■■ 必ず脱出の道がある
第三に、今の問題には必ず出口があるのだと希望をもつことです。特に非行問題は永遠に続くものではありません。案外知られていませんが、非行を繰り返し、少年院などの出入りを繰り返しても、必ずしも刑務所には行きません。暴力団などの職業犯罪組織にさえ加わらなかったら、自然と二〇歳前後には、非行から離れていく若者が大半です。
 なぜなら、同年齢の者が高校を卒業する頃になると、非行少年のかなりの者が仕事に落ち着くようになり、同年齢の多くの者と比べても、経済的にはそれほど遜色がのない生活が送れるという実感を得ますし、真面目だった者が大人びた遊びをするようになるので、無理に大人びる必要もなくなるからです。このように指導者の努力とは別に、周囲との関係性が変わり、二〇歳前後になると、確かに学歴などによって生じる無力感や疎外感は弱まっていきます。そして、良い意味で開き直ることができるようになるので、自分の現在の境遇を受け入れやすくするのです。
 ある非行カウンセラーは、非行少年への働きかけとして、本人がある程度成長するまでは「時間かせぎ」をし「差し水」をすることを勧めています。これなども、諦めるのではなく、解決への希望を持つための、ユニークな励ましになっているように思います。










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連載АЩ阿弔離僖拭璽
2006.12.06 Wednesday 17:08
背伸びと息切れの時代・第7回
 「三つのパターン」

 前回、人が顔色うかがいをする生き方を取り上げました。そこには、心の奥底で「他人から拒否されるのではないかという不安」と必死に戦っている姿であると説明しました。
 こうした生き方というは、自分の内面を見せないことが特徴ですから、「拒否される不安」と戦って困惑している姿なぞ、絶対に人には見せません。ですから、この心の戦いを経験したことのない人からすると、常識ではとらえずらく、非常にわかりにく生き方だと思います。
 そこで、私が日ごろ感じている「顔色うかがい」の生き方について、もう少し具体的な姿をいくつかのパターンにして大ざっぱにまとめてみたいと思います。

■ 献身パターン
「顔色うかがい」をする人たちは、とにかく自分を必要としてくれる誰かを求めています。それも想像を絶する凄まじさで求めています。自分のありのままを出したら周囲は自分を絶対に受け入れてくれないだろうという確信に基づいて生活しています。そのため、ふつうの人間関係では、ささいなことにも自分の弱さ、駄目さを刺激されやすく、つらくて仕方がありません。そこで自分が明らかに優位に立てる人に結びつこうとします。たとえば、真面目な女性がチンピラばかりに恋をする場合などはそうです。こうした人間関係は、尽くす側から見れば、「こんな人だからこそ私が必要だ」という感覚を強烈に味わえますので、自尊感情を潤わせることが容易にできます。そして自分の弱さ、駄目さを刺激されることはほとんどありません。「割れ鍋に閉じ蓋」カップルです。
かつて私は天涯孤独な青年を面接したことがありました。彼は、街頭で新興宗教の若い女性から勧誘を受け、集会所についていきました。そこでは若い女性を中心とした若者との会食の席が待っていました。彼はすっかりその楽しさに魅せられてしまったのでした。なんと翌日には数十万円もの寄付まで払いました。それ以後も、ことあるごとに、強要されたわけでもないのに、なけなしの金を払い続けました。彼にはその寄付の意味もその宗教の教義もまったく関心がありませんでした。集会に五、六回行ったころでしょうか、金がほんとうになくなり、寄付をしたくてもできなくなりました。すると彼は急に気が引けて行きづらくなり、ぱったりと連絡を絶ったのでした。彼は、自分が布教対象者であり、寄付できる金があればこそ、相手に対して自分が価値のある存在だと安心して思えるのですが、それらが少しでも揺らぐととたんに逃げ腰になってしまうのです。

■ 敵前逃亡パターン
 次ぎに、彼らは、相手に拒否される前に、自分から先手を打って関係を切ろうとすることがあります。もたもたしていて相手に完全に拒否されて立ち直れないほどの痛手を負うより、自分から関係を切って拒否されるほうが、まだ絶えられるというわけなのです。それほど相手から拒否されることを恐れているのです。
たとえば、仕事をささいなきっかけで辞めてしまう青年がいます。大きな失敗をして辞めることになるよりは、小さな失敗で早めに辞めてしまうことのほうが安心なのです。恋愛でも、熱烈な雰囲気の関係がピークになると感じると、自分がふられることを妄想的に恐れて、自分のほうから別れ話を切り出す少女がいます。さらに自分のことを知られて相手に嫌われるよりも、自分の印象の良いうちに別れたほうが救いがある、という理屈なのです。別れた直後は失恋の痛みに苦しみますが、相手からふられるよりは苦しみが少ないととらえているのです。
 
■ 自棄パターン
 もう一つ。彼らは拒否されても傷つかない自分のなろうとすることがあります。言葉を換えれば、孤独に生きていくことに平気な人になろうとしています。悪の自分、一匹狼の自分が本来の自分なのだといった否定的な生き方を形作っていくわけです。だから人に援助を求め、相談しようとする意識が非常に希薄になります。ヤクザやヤクザ的生き方に憧れる人のなかにはけっこうそういう人たちがいます。「どうせ大人はずるい、社会は信用できない」といった偏屈な態度をとる若者のなかにも、自分が傷つかない防御壁になっている場合があるのです。

さて、ひとつひとつの姿は悲しいくらいに不自然で不幸な生き方に見えます。しかし、どれもこれも本人からすれば適応的な人生に向けた必死なやりくりの結果なのです。もしその必死なやりくりを急に止めたら、どうなるでしょうか。孤独で情けない現実に直面して、落ち込み、生きる気力が沸いてこなくなったり、顔面蒼白になって泣き出したりするかもしれません。くれぐれも彼らのペースでゆっくりと現実に直面させていくしかないのです。
 そもそも、彼らの不安というのはいわれのないものではありません。私たちは、自分の本当の姿を見つめるとき、実は、自分が価値のない、ちっぽけな存在であり、自己中心にしか考えられない醜い存在であることを認めざるをえないのではないでしょうか。そして神様がこのような人間に、救いと計画を用意していることに、驚嘆するのではないでしょうか。小手先でごまかしたり、逃げ回るのではなく、そのことをきちんと受けとめ、悔い改めるとき、私たちは本当の自信を得ることができるのです。

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連載ΑТ蘓ГΔがい
2006.12.06 Wednesday 17:07
背伸びと息切れの時代・第6話
「顔いろうかがい」

 ある牧師がこんな話をしてくれました。
 「かつて犯罪(窃盗)を犯して施設に収容されたことのある若者を自宅に迎い入れ、生活の面倒を見たことがありました。真面目な青年で、家族ともなじみ、私も我が子のようにかわいがったつもりでした。彼は仕事も頑張り、なにもかもが順調にいっていたように思えました。ところがどうでしょう。なんの兆しもありませんでした。今もまったく連絡がありません。またいなくなる直前に僅かでしたがお金も盗られてしまいました。それをどういう気持ちはありません。彼にしても借金を申し込めば私がそれ以上のお金を気持ちよく渡すことはわかっていたと思うのですが。・・・残念です。」
これはいったい何が起こっているのでしょうか。突然飛び出した若者は最初から、その牧師をしたたかに利用するつもりだったのでしょうか。
彼は、一言でいうと、「自分が人から拒否されるのではないかという強い不安」と戦っていたのだと思います。たとえてみますと、ちょうど人が、一定の期間、食物に飢え乾くと胃が萎縮してしまう減少に近いものがあると思います。そのような状態の体は、突然食物が与えられても、うまく消化・吸収できません。愛情の飢餓状態にある人たちもちょうど同じなのです。

■ 拒否されることへの不安
ここで、孤独な青年たちのことを思い描いていただきたいと思います。不遇な環境を背負って、人生の早い時期から愛情の飢餓感と戦っています。また、思春期に、つっぱったり、おちゃらけたりすることもなく、もくもくと我慢を続けている若者たちです。
 彼らの多くは、貧困や家庭の崩壊、能力的な制約などといった、けっして本人の責任でない深刻な負因を、幼い頃から無理矢理に背負わされています。そして、あえいでいるのです。幼い頃から、親や身近な大人の愛情を確認しようとして、家の金を無断で持ち出したり、親類や友人宅、あるいは学校などで盗みを働いたり、店舗で万引きをしたりといった問題行動を見せることもあります。
 彼らは、心の奥底に、甘えや依存の強い欲求を持っていますが、それを素直には出せないのです。なぜなら、自分のありのままの姿を出したら、とうてい受け入れてもらえないだろうという感覚があるからです。そして、自分に対する肯定的な感覚が持てないままに、「拒否される不安」との壮絶な戦いを心の中では続けているのです。だから頑張りはするのですが、少しの失敗や不安の予感にも心を乱してしまい、逃げだしてしまうのです。
 実際にそうした若者たちから、彼らのこども時代の話を聞きますと、放置されていたり、不当に圧力をかけられていたりしているその現場に、タイムマシンで駆けつけて、「あなたは犠牲者だ、悪いのは親であり、周囲の状況なのだ!」と叫んでやりたい気持ちになることがあります。しかし、どのようにひどい対応をする親であっても、幼少期、児童期のこどもには、自分でなく親のほうが悪いという批判力はほとんどありません。逆に親に叱責され、拒否されてしまう自分こそが悪いと感じてしまうのです。思春期以降であっても、こどもが親を非難し、切り捨てることは、経済的、心理的基盤を失うことにつながる危険があって、なかなか不満を口にするのは難しいことなのです。

■ 勇気づけるためには
 こうして「拒否される不安」を抱えながら、ひたすら我慢の生き方を選択していくようになると、その人の一見まじめで素直な感じが周囲に印象付けられます。しかし、よく観察すると、大人や指導者の前で「顔いろうかがい」に終始していて、内面的な交流がなかなかはかれない状態にあります。彼らは大人や指導者の言動には過敏に反応するために、かわいげがあるし、指導場面ではなんの支障もきたしません。しかし、こちらが指導やかかわりがうまくいっていたと思っていたら、突然大きな問題を起こしたり、ふいに指導者の前から姿を消してしまうのです。当の指導者からすれば、「あれだけ情けをかけたのに裏切られた」という割り切れぬ思いを抱くことになりかねません。
もちろんこうした生き方は若者だけの専売特許ではありません。年齢があがり、大人であっても、同じように、はたからは理由がわからないままに、突前職場を辞たり、友情や愛情を破棄したりする「顔いろうかがい」の人たちは案外いるものです。
さて、このような「顔いろうかがい」の人たちとつきあうためにはどうすればよいでしょうか。まず、一朝一夕で解決できるような問題でないことを肝に銘じなければなりません。裏切られながらも一生をかけて粘り強くかかわっていく覚悟が必要です。もし途中で、嫌気がさして辞めてしまったら、それこそ彼らの拒否される不安を強化してしまうことになります。
 そして本人がわずかであっても、周囲と信頼しあいながら物事を達成していく経験を積み重ねること、そして失敗してもそれだけで人から決定的に拒否されることはないのだということを、その都度体験していくことが肝心なのです。
これは「言うは易し、行うは難し」です。私たちが、目先のことで一喜一憂せずに、長丁場で彼らを勇気づけていくためには、私たち自身がまず、自分の弱い部分も含めて他から勇気づけられる体験が必要で、それがないと本当の意味では続きません。
 また、当事者も、逃げ出さずに、失敗する勇気を持てるようになるためには、顔いろうかがいをしなくても済むような大きな愛情に、ちょうど親鳥の羽の下にいるひな鳥のように(詩九一、四)おおわれる経験が必要なのです。
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連載ァГちゃらける若者の孤独
2006.12.06 Wednesday 17:05
背伸びと息切れの時代・第5話
「おちゃらける若者の孤独」

 非行少年というと、「つっぱる」姿を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、彼ら・彼女らがみなつっぱっているわけではありません。実はその反対の「おちゃらける」子たちも多くいます。それもひたすら、おちゃらけるのです。
 確かにおちゃらけることが、適度であれば、周囲に順応する際の潤滑油のような役割を果たすでしょう。多くの現代の若者たちも、そこそこにおちゃらけながら、周囲と折り合おうとしています。しかし、過度におちゃらける場合は、周囲からひんしゅくをかったりします。つっぱる若者には、自分のふがいのなさや無力感と戦う姿がありますが、このおちゃらける場合には、孤独でで寂しい状況と戦っている姿があります。おちゃらけがエスカレートすると、つっぱり同様に周囲への挑発となっていきますので、結果的には疎外、孤立していくことになります。ちょうど、つっぱる子が叱られるとますますつっぱるように、おちゃらける子が道理を説かれると、ますますおちゃらけていくことになります。

■テレクラ少女
 かつて私が面接をした少女で、いわゆる「テレクラ」が楽しくてしようがないという中学生の女の子がいました。彼女は口を開くとそれまでの無表情な顔が急に愛くるしくなって、「カレシとホテルに泊まっていたので楽しかった」と、自分の家出生活を無邪気に話してくれました。しかし、「カレシ」といっても、特定の男性を指すのではなく、日替わりのテレクラ売春の客であったのです。私は、家出中に、不特定複数の男性とホテルに泊まる話に、それじゃあカレシでもなんでもないだろうにと思いつつも、その言葉を飲み込みました。
 彼女は飛び抜けてひょうきんでした。いい加減な生活態度も目立っていました。しかし、ひょうきんすぎるから脳天気に新しい異性との出会いを求めてホテル住まいを続けていたとは、とても考えられませんでした。たとえ一夜の関係であろうとも、優しい言葉をかけてもらえる受容感を味わうために、あえて家を飛び出したのだと考えたら、彼女の普段はおそろしく孤独なひとりぼっちの世界に違いないのです。そして彼女のひょうきんさは、その孤独な世界にいることを忘れるための、壮絶な戦いの姿ということになるのではないでしょうか。
 私は思わず「寂しくない?」と話しかけると、彼女は「私、くよくよするタイプじゃないから」と答えてくれました。実は、彼女は、父親と幼い頃に離別し、思い出がありません。母親は彼女が小学生のころ、彼女の目の前で不慮の事故死を遂げ、ここ数年は、折り合いの悪い、年老いた祖母との二人暮らしを続けていました。こうしたことをふまえても、彼女は楽しく生きていると主張し続けました。

■おちゃらけつづける理由
彼女がおちゃらけ続ける理由は何なのでしょうか。なぜ困惑の感情を素直に見せてくれないのでしょうか。それは命がけで悩まないようにしているからなのです。
 もし、彼女も含め、おちゃらける非行少年・少女たちが自分の人生を真剣に考え、悩んだとしたらどうでしょうか。学校から落ちこぼれ、家族からは愛想づかれ、周囲からは浮いている現実があります。自分の中でも、自信がなく、良いものが見つからない状態にいることを直視することになってしまいます。不利な学歴、葛藤のある家庭。こうしたものは悩んでみてもそうは変わりません。まして相談しても現実は変わらず、かえって説教や非難をあびてしまい、自分の無力で孤独な姿に直面させられてしまうだけなのです。それは人によっては死ぬほどつらいことなのです。
 だから、おちゃらける人とかかわるためには、彼女・彼らがそうした無理をした生き方をすることではじめて不遇な状況を生き延びようとしているのだということをまず私たちが理解する必要があります。あのおちゃらけたテレクラ少女に、現実を性急に突きつけて(仮にそれが成功したとして)無防備なままに自分の孤独で真実な姿を直視させたとしたら、きっと生きていく元気や希望が持てなくなるにちがいありません。寂しい自分を認めても、また無力な自分を認めても、すべてが壊れてしまうわけではないということを感覚としてわからなければ、人が生き方を変えることは難しいことなのです。
 それでは、私たちは、おちゃらけた若者に、何を語れるでしょうか。
私たちは、人生は寂しいばかりではないのだという励ましを、どのくらい本音で伝えられるでしょうか。
刺激的な恋愛、性、ぬくもり、グルメ、気を引くおしゃべり、個性派のふり、非日常、感動体験、スリル・・・こうしたお祭り騒ぎの高揚感に、テレクラ少女は、寂しくない自分を感じようとしていました。しかし、そこには持続した人格的な人間関係がありませんでした。ですから次々と新しい高揚感を求め、おちゃらけをエスカレートさせていきました。
ふりかえって現代の社会も、お笑い番組を求め、イベントを乱立させながら、高揚感を過剰に求めています。大人である私たちこそが、まず人との真摯な関係を見つめ直し、堅実な友情やその他の人間関係を築き上げてみせることが求められているのだと思います。そのうえで、おちゃらける彼ら・彼女らに、そのやせ我慢の部分を腹で察してあげながら、個々の具体的な援助や約束を与えていくことを、地道に続けること、そうしたことが彼らの生き方にしみいるかかわり方となるのだと思います。
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連載ぁЭ瓦寮こ
2006.12.06 Wednesday 17:03
背伸びと息切れの時代・第4話
「心の世界」

ある人に、非行カウンセリングの仕事を痛烈に批判されたことがありました。
 窃盗を犯した人と面接をして、その動機を解明する、などという仕事に意義があるとは思え
ない。そのようなことは一目瞭然ではないか。金を盗むのは金が欲しいからに決まっている。
非行や犯罪を減らすのには、経済を立て直し、景気を向上させることが特効薬となる。これほ
ど自明なことに、ごちゃごちゃと付け加えようとするのか。
 ここまで極端ではないにしろ、案外、こうした発想をお持ちの方はいるのではないでしょう
か。

● 心の世界
ここにマンガ本を万引きした少年がいるとします。
なぜ万引きなんかをしたのかと本人に聞きます。すると彼はしばらくの沈黙の後、「そのマンガ本がほしかったから。小遣いがなかったから」と答えます。社会常識からするとこれで一件落着です。原因がわかったからです。しかし、実際にはそれだけで万引きが行われることはありません。その証拠には、親や周囲の大人が彼にマンガ本を買い与えても、あるいは小遣いを余分に与えても、必ずしも万引きがとまるとは限らないからです。
もしかしたら彼は一緒に万引きをした仲間の顔色をうかがったのかもしれません。あるいは、その書店の店員の態度に不快感を募らせたのかもしれません。はたまた前夜に両親がけんかをしていたことを気に病んでいたのかもしれないのです。また、少し前に学校の成績のことで叱られたことが影響しているのかもしれません。どれもこれも嘘ではありません。見栄や当てつけ、気晴らしなどいろいろな意味が同時に存在しているというのが本当のところなのです。万引きをはじめ非行は、これらの意味がたくさん重層して、行われます。しかし、たいてい本人も周りの大人もそうしたことをあまり自覚していません。だから、十も二十も、たくさんの意味が存在しているのにもかかわらず、常識的な「いかにも」という理由をとりあえず取り出して納得しているのです。
 もっとも、私たちはふだんの生活のなかで、いちいち多層的な心の世界を考えていたら、物事が円滑に進みません。原因を分析して対策を講じるという行為も、多くの場合、表層的に単純化すればこそできるものなのです。しかし、心の世界で行き詰まった事態に遭遇したなら話は別です。そうしたとき、私たちは本来の多層的な世界に立ち戻らなくてはならないのです。

● 非行の意味
それでは、非行の、たくさんある動機のうちで、もっとも心の深いところにある意味とはどのようなものでしょうか。それは、「強い自分」、あるいは「寂しくない自分」を必死に味わおうとすることだと思います。
たとえば暴走族で夜の街を走れば、周囲から怖がられる自分を感じて、自分は強いのだと実感することができます。場合によっては、まじめな同世代の子にはまねのできない蛮行をしている自分、あるいは、グループの中で役付きの自分、後輩を従える自分、警官を愚弄できる自分、見物する若者たちから憧れの対象となる自分など、いろいろな強い自分を味わうことができるのです。
人を殴るような場合など、もっと単純明快に強い自分を味わうことができます。人を支配することで、幻想的な自己拡大感を味わっているのです。
それらは本当の強さではないのは明らかです。しかし、本人からすれば、学業成績が思わしくなかったり、同世代の子から浮いたりして、親の期待にこたえられない無力感、劣等感に悩んでいるわけです。そのように思うように活躍できない状況の中で、彼らなりの絶望感を背負い込んでいるのです。非行は、そうした中でわらをもつかむ思いで到達した打開策であるのです。幻想の中での強い自分かもしれませんが、本来の弱い、さびしい、醜い自分を認めてしまうよりは、数段元気が出てくるのです。だから、けっして立ち止まりません。困れば困るほど強行突破しようと虚勢をはっていきます。失敗すればするほど、なんとかしようとするほど、また同じようなことをしでかしてしまうのです。これはこの連載で幾度もとりあげている「背伸び」の生き方の原動力になっているのです。

● 意味を知るだけでも
非行少年とのかかわりで一番大切なことは、カウンセリング技能でも、知識でもありません。彼らとかかわるその人が、彼らの横柄で自己本位な言動に怒るのではなく、その裏側にある彼らの無力感や疎外感のやりくり、すなわち強い自分、寂しくない自分を求めようとして息切れし、うめいている姿を受けとめることです。それだけで、彼らとの関係はゆっくりとしかし確実に変わっていきます。それは言外に、彼らを不用意に刺激しない配慮が生まれるようになりますし、察してあげるようなかたちで、慰めやねぎらい、賞賛の気持ちが伝わり始めるからです。
 またもうひとつ大切なことがあります。それは彼らに接するその人が、まず自分自身のなかにある「背伸びの息切れ」の生き方や、その根底にある「無力感、疎外感のやりくり」について自己点検をしておくということです。多くの大人にも、大なり小なり同じメカニズムが潜んでいます。しかし、そうした自分を自覚していない人は、非行少年の言動が、根性のない、ダメなものにしか映りません。なぜなら自分も頑張っているのだからお前も頑張れないのはおかしいじゃないかという感覚が無意識にあるからです。ところが、いったん自分のなかにある息切れを認め、受け入れた人は、不思議なことに、非行少年の姿が「けなげ」に見えてくるのです。


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雨の心理的イメージを鍵に、雨の降る物語を読み解く。カウンセリング論であり、人生論でもある。
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