(仮)立ち止まって考えるクリスチャン・ライフ【付章】の連載にあたって
2009.04.09 Thursday 20:10
(仮)立ち止まって考えるクリスチャン・ライフ【付章】の連載にあたって
 
  この1月、「(仮)立ち止まって考えるクリスチャン・ライフ」を3章だてで連載した。現在非公開にしているが、この5月末か6月には、書籍として登場する予定である。
 その後、3章に加えて、付章として、研究ノートのようなつもりで、知識部分を補充した。形式としては、15の質問をタイトルのように構成した。
 その付章の内容自体の、80%くらいの部分は、すでに幾度もブログに載せてきたものなので、「今さら」という感じだが、また新しい構成で読むと発見もあるかもしれない、というこじつけで、再び短期集中連載を行うことにした。
 掲載は、4月20日まで。
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3章3話「使命感と共感性」
2009.01.08 Thursday 20:11

 3章3話「使命感と共感性」 

 自分の中に混ぜ物がないかのごとく考えると、「聖俗二元論」とは別に、「使命感至上主義」とも言えるアンバランスな生き方に陥ることがある。聖俗二元論のたとえでいえば、この使命感至上主義というのは、「俗」の部分も「聖」の一部である、あるいは、「聖」の実現のために必要な「俗」もあるとうそぶく方法である。

  雑誌「AERA」2008年4月14日号(朝日新聞社)に「牧師の性犯罪」についての記事が載った。心痛む事件である。もちろん本来なら、まず霊的、神学的な側面からの分析・洞察を行うべきところであるが、ここは筆者の役割上、心理カウンセラーの立場から、「使命感至上主義」の表れとして解説をしたいと思う。
 
 まずこのことから考えてみたい。
 加害者として問題を起こした牧師が、一般に「尊敬され、高尚な生き様を周囲から認められていた」「良い仕事をし、実績がある」「実際に交流があったが、とても信じられない」といった感想が寄せられることが多いことである。
 これには必然性がある。つまり、多くの場合、並の人材でなく、むしろ有能・大物で、本来豊かな仕事をしていく人のはずであったのだ。

 私は、問題を起こした牧師や指導者たちが最初から、いい加減な活動をしていたとはまったく思わない。ただ、その牧師や指導者の活動が評価され、拡大していく(活躍していく)なかで、次第に「使命感」が膨張してしまうことが大きな問題と結びついていくと考えている。大きな働きをする指導者にとって、使命感と共感性のバランスが大切なのだが、ある人は使命感ばかりが膨張してしまい、この共感性が枯れていくので、いざというときに常識的な自己点検ができなくなるのである。

 そしてこのことは一般の信仰者にも言えることである。人により、活躍の舞台が教会の奉仕であったり、世俗の職業生活であったり、地域社会であったりするかもしれないが、使命感に燃え、信仰を掲げ、良い働きと良い証しを立てている人がいる。傍目に目立つ人もいれば、人知れず自らの使命感に基づいて励んでいる人もいる。しかし、「使命感」が膨張してしまい、暴走したり、そこまでいかないまでも、周囲の人を傷つけ、翻弄してしまうことがある。

 そもそもどのように高貴な人の「使命感」にも、高尚でない人間的な「混ぜもの」が入っているものである。本当に高尚な人生を全うする人は、そうした混ぜものが自分の使命感に混入している、あるいは混入してくる危険性をリアルに自覚している人である。
 それがないと、役割や自分の立ち位置で得ている、自分の賜物(才能)や成熟さを超えた「底上げ」部分の評価や実績を、自分の評価や実績だと思いこんでしまいやすい。また、自分の「使命感」が絶対だと思い始めた瞬間から、使命感が最優先され、そのためなら他の物を(宗教をも)利用することが始まってしまう。そして自分の使命感、自分の人生のためなら、多少のことは許される、仕方がない、という感覚が強化されていくのではないだろうか。

 悲しいことに不祥事事件を起こした加害者が、それを認めた後も可能な限り、従来通りの活動を続けようとすることがある。混ぜものだらけの使命感であっても、また、ひからびた、悪臭を放つ使命感であっても、そして、世間からみれば使命感とはほど遠い個人の私利私欲にすぎないものであったとしても、本人からすればまだ幻想の「使命感」を手放せないでいるのである。

 義人はいない。英雄もいない。スーパーマンもいない。ただ、自らの内にある混ぜものを警戒・吟味し続ける謙虚な人たちがいて、神様から祝福を受けるのである。


 

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2章2話「どうすればよいのか・自己改善編」
2009.01.07 Wednesday 00:13

 2章2話「どうすればよいのか・自己改善編」

 「背伸び・強行突破」型の生き方の改善策の基本姿勢を述べた。引き続き、自分自身が「背伸び・強行突破」型の生き方を身につけている場合の克服方法について考えていきたい。

ー分に問題があることを自覚する。
 まず自分自身の中に、「背伸び・強行突破」型の要素があることを自覚し、認めることである。変な話だが、自覚し、認めることができるなら、解決のゴールは近い。そうすれば、状況を冷静に見ることもできるし、非常識に無理に無理を重ねることもないし、いざとなった周囲に助けを請うこともできる。
  静かなひととき、祈り、聖書を読むことや、失敗の後や不安な時に、内省したり、黙想したりすることなどは、自分自身の無理をしている背伸びの姿勢や性質を自覚し、味わうことに役立つ。
  しかし、自分の「背伸び・強行突破」の姿勢を自覚することは実は大変難しい。だからいろいろと苦労するのである。
 そこで、以下の項目では、自分を深く洞察するための観点や手がかりを紹介する。

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  何度も言うようだが、人は背伸び・強行突破をしている人ほど、自分のコンディションには鈍い。
 ただ、自分が息切れ状態にあるというSOSサインは、本人の自覚に関わりなく、発信される。
 ある人は、ある犯罪事件を起こす半年前から急に軽微な交通違反を連発するようになった。ある人は、ある不祥事を起こす1か月前から頭痛がひどくなった。
 このように、人によってエピソードの内容はいろいろであるが、息切れ状態の危険を知らせるためのサインとして、自分の体や精神状態さらには行動エピソードがいつもと違う信号を出してれる。人はそうした自分のSOSサインをあらかじめ承知しておき、いざそのサインを知ったときに、理屈抜きにブレーキをかけ、休養と自己点検をしなければならないのである。

2搬欧笋ょうだいとの関係をふり返る
 背伸び・強行突破の生き方のルーツを深く探っていくと、家族関係にたどり着く。だから、深い自己洞察を願うなら、家族関係をふり返ることには多いに意味がある。ただ、原因探しに汲々となり、過去の幼少期に受けた傷が影響しているなどと紋切り的な解釈に陥ってしまうと出口がなくなる。
 実は、背伸び・強行突破の姿勢を身につける直接の要因というのは、親子関係というよりは、「きょうだい関係」に起因している。人は競争関係をきょうだい関係を通して学ぶのである。だから、きょうだい関係をふりかえりながら、自分の背伸びのあり方、弱さとのつきあい方を分析し、自覚しておくことには大切な意味がある。

ぢ腓な枠組みの点検を行う。
 これまで身につけてきた使命感や信念、優先順位といった大きな枠組みを再点検する必要も大きい。というのも、人は加齢や成長、また状況の変化に応じて、対処する方法や課題が異なってくる。だから、ある時期まで通用したからと言って、今後も同じである保証はない。いやむしろ、少しでも不安感や行き詰まった感じがあるとすれば、間違いなく、自分自身の人生のステージが新しい段階に来ているのである。
 たとえば中年期(目安として35〜60歳)に人生の価値観の大転換を経験することはむしろ自然で、ある意味、必要なことである。もちろん60歳以降、老齢期にかけても同様である。

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 弱音を見せ合える小規模の交わりグループの持つ力は、驚くものがある。それほど人を支え、変える力がある。特に「背伸び・強行突破」型の人の場合、そうである。
 病院や心理相談室には、自助グループ、サポートグループといった名称で、特定の問題に絞って、その体験者が集まるようなグループがある。
 教会やその他の組織にも、グループが存在している。リカバリーグループ。12ステップ。企業人のためのVIP運動。これらは予防にも治療にも教育にもなる。もちろん自分だけでなく、他者援助のためにも重要なポイントである。

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 グループの力と似て、しかも自分のためのオーダーメイドとして備えられているものに、友情がある。これは単純身近なもののように見えて思いのほか、デリケートな問題である。なぜなら、背伸び・強行突破型の人ほど、心を開いて友人と交流するのが難しく、自分の「弱さ」を見せられないからである。
 しかし、実際には、大上段に構えた美談のような友情である必要はない。「こうした問題で今困っている」と少しでも言えるだけで良いのである。それだけでも、背伸びの息切れが和らぎ、自分に対する洞察力が変わってくるのである。

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1章6話「暴走・脱線も本人からすれば打開策」
2009.01.05 Monday 18:31

 1章6話「暴走・脱線も本人からすれば打開策」

 そもそも、背伸び・強行突破の果てに、人はどのような方向に破綻していくのだろうか。背伸びと息切れの悪循環が深まるたびに、どんどん高い目標を持ち出すというが、その目標はどのような性質のものを設定しようとするのだろうか。

 そこには、本当の目標にはとても到達せず、それに代わる幻想的で部分的な成功に目を向け、とありあえずの充実感や達成感を味わっている姿があるのだ。

 たとえば、中学生が、勉強や運動や特技などで承認を得、受容を味わうことが本来の目標だとすると、それらを実現することがむずかしく、しかもその現実を認めずに、目立ちたいと思えば、悪の世界で目立つことに活路を求めることになる。これが非行化である。非行や物騒な攻撃的行動は、どれもこれも背伸び・やせ我慢の末に、惨めで無力な自分を認めまいとして、必死に自己拡大感を味わおうとしている姿なのである。無力感を払拭するのに、直接、人を支配したり、人を威圧するような行動をとることは、幻想的ではあっても当人には「強い自分」を味わう格好の機会になっているのである。

 また、うら若い女性が、特定の異性と恋愛関係を持つにあたって、互いに長所も短所も、また価値観や生活スタイルの違いも理解し補い合いながら交流を深めていくことが本来の目標だとすると、それらがむずかしく、一時たりとも孤独でいることが受け入れられないと思えば、絶えずとぎれなく誰かと恋愛関係にいることを求め、実は「だれでも」良いような一時的活路を求めることになる。これが恋愛依存である。現実の孤独感や疎外感を直視せずにすむように、時に性を媒介としながら、受容感をあさるのである。これは人とのせつな的で表層的なかかわりしか持てないが「寂しくない自分」を確認する格好の機会になっているのである。

 そして無力感の払拭にしろ、孤独感の鈍磨にしろ、動き回る彼ら、彼女らにとっては、一見、周囲からひんしゅくをかうような行為ではあっても、本人からするとどれも必死な適応に向けての打開策であるのだ。

 聖書で、モーセという大宗教指導者が出てくる。エジプトで奴隷となっていたユダヤ民族を最終的には導きだした英雄である。しかし、彼はまだ若い時に、自分の民族を守るために殺人を犯している。確かに彼の民族の独立を思う気持ちは尊い。しかし、この時の殺人は、その動機が混ぜ物だらけだであったと思う。よくよく考えてみると、まだこの時には本当に遠大な構想や計画があったわけではない。自分の「お国再興」のテーマがまったく展開できず、いらだち、いわば八つ当たり的な暴発として行ったものであった。いわば救国の思いを幻想的に味わった瞬間であったのである。

  私たちの素朴な信仰生活でもこうしたことと無縁ではない。
 信仰者としてのひとつひとつの行為も、一見正しい動機を伴っていても、有能な自分、弱くない自分、寂しくない自分、正しい自分を味わうとして躍起となっている自分の姿があるのかもしれないのである。


 

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1章5話「積極思考の落とし穴」
2009.01.05 Monday 18:30

 1章5話「積極思考の落とし穴」

 「背伸び・強行突破」型の人は、良くも悪くも、積極的な可能性に賭けている。ここでは、「積極思考」「潜在能力」といった積極的な生き方にかかわる哲学について考えてみたい。

 「積極思考」とは、物事の肯定面を重視し、明るい見通しを持って積極的に進んでいくことで、自分の潜在的な可能性を最大限に引き出していこうとするものである。人生は冒険の連続である。この考え方自体、まちがってはいない。しかし、ただ単純に事態を楽観視し、楽天的に進んでいくのだとしたら、それはまちがっている。

 たとえば、大会社を創設した社長は、確かに積極思考を語るが、同時に、会社をつぶし、最後は犯罪にまでかかわってしまうダメ経営者も、やはり積極思考を語る。そしてこちらのほうが数的にはよほど多い。ところが、成功者だけがひたすら露出するので、ついつい冒険をしながら会社をつぶしてしまう経営者のことを忘れてしまう。

 依存・嗜癖の患者さんなどに至っては徹底した積極思考者である。「いつか賭事を極めて必ず大金を手にする」「これさえ手に入れれば、すべてはうまくいく」。このように積極思考で人生をダメにする人は、人生の成功者よりも多いのである。

 それではどのように積極思考を生かし、人生の成功者を目指せるのか。

 第一に、物事の否定面、自分の弱さや問題を十分に直視し、認めた上で、あえて物事の肯定面も見ていこうとすることが必要である。最初から、肯定面、楽観論を探すだけの生き方は、まやかしであり、あまりにも薄ぺらである。しかし、否定面をも見据えたうえで絞り出す積極思考には深みがある。そこには地に足のついた現実性が含まれる。

 第二に、「なせばなる」という自己万能感ではなく、いかなる現象にも自分の思惑を超えた意味があるだろうという謙虚な姿勢が必要である。自分の都合の良いように楽観的に解釈していこうとする人は確実に解釈をゆがめていく。そうではなく、自分の今賭けている冒険は、自分以外の意志によっても導かれているのだという使命感や諦念のようなものである。信仰者はこの点、本来圧倒的に有利なはずである。

 「背伸び・強行突破」型の人であろうと、「甘え・へたり込み」型の人であろうと、冒険や失敗の後の再出発に際して、このような自己点検は不可欠である。自分の弱さや限界をきちんと認めたうえで、いわば「良い意味で開き直る」プロセスこそ、真に積極的な生き方を続ける秘訣である。

 

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1章4話「再出発の決意がバラ色?」
2009.01.05 Monday 18:28

 1章4話「再出発の決意がバラ色?」

 「背伸び・強行突破」型の人が失敗の後、どうするのであろうか。ここではそのことを考えてみたい。

 私は仕事をしているとき、野球の3割打者をイメージするようにしている。すべての打席で会心のヒットは打てない。ただ、ここぞというときにはヒットを打つ。そう思わないと、ついつい打率10割を目指してしまい、かえって打撃フォームを崩してしまう。また、別のときには、8勝7敗をイメージする。一つだけでも多く勝てば良いと自分に言い聞かせるのである。これもまた連戦連勝の幻想に振り回されない工夫である。

 さて、こうした教訓は、たぶんに「背伸び・強行突破」型の人の心理カウンセリングをしてきたことから学んできたことである。なぜなら彼らは、常に10割、全勝を真剣に目指している。凡打がひとつでもあると絶望し、ついつい一か八かの玉砕型の勝負に出てしまうのである。

 カウンセラーの経験からいうと、「背伸び・強行突破」型の人が何か失敗をしたときに、今後のことについて、景気の良い、バラ色の再出発を語りすぎると、その後が危ない。バラ色度合いが高ければ高いほど、すぐに次の挫折がやってくる。逆に、地道な再出発を語る人は、安定した再出発をしていくことが多い。実に鮮やかな対比である。

 ここには何が起きているのであろう。

 実は強力な悪循環が作られている。ある人が「背伸び・強行突破」の生き方をしていて、壁や限界が来る。そこで本人は息切れ状態に陥っているのだが、本人は自覚しない。本当はこれを機に、目標を下げたり、人に弱音を吐いて援助を請うたり、休養したりすることも手としてはあるのだが、本人は思いもしない。ひたすら、自分の頑張りが足りないからうまくいかないだけであって、この事態を打開するためには、従来以上にもっと頑張って、強行突破しなければいけないと思う。そこで、背伸び・強行突破の姿勢をさらに強いものとする。すると、ますます息切れ状態は深刻になる。すると、強行突破の背伸びもますます強いものになる。そしてそれは、ますます「ますます息切れ状態」になって、さらにますます「ますます背伸び・強行突破」になってく。こうして雪ダルマ式に息切れの悪循環は深刻化していく。自分の息切れ状態を認められないと、この悪循環は止まらないのである。そして悪循環が深まるたびに、すなわち現実の息切れ度合いが深刻になるために、自分をムチ打とうとして、頑張るための高い目標を持ち出すのである。

 私たちも、再出発の決意がバラ色にすぎるとき、自分の背伸び・強行突破の息切れ度を自己点検する必要がある。

 

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1章3話「後悔するが、悩まない」
2009.01.05 Monday 18:27

 1章3話「後悔するが、悩まない」

 この節では、「背伸び・強行突破」型の人が身につけている「後悔するが、悩まない」という思考パターンを考えてみたい。

 私は心理カウンセラーとして、「背伸びの息切れ」の果てに問題を抱えるに至った人との面接をよく経験する。
 人間関係がうまくいかずトラブルを抱える人。異性問題や金銭問題で歪んだパターンのある人。ギャンブルやアルコールなどで生活を大きく崩している人。犯罪に至った人、などなど。

 こうした人たちは、共通して「後悔するが悩まない」生き方を続けている。いったん問題が表面化し、にっちもさっちもいかなくなると、ほどなく観念する。そして、我が身を振り返りながら後悔する。これまでのことを悔やみ、もうしない、もう平気なのだと決意するのである。それは嘘や演技でなく、本気でそう考えている。しかし、悩んではいない。
 そういう人は、あのときのあの行動がいけなかったのだと言ったり、その時の自分がどうかしていたのだと言ったりする。あるいは当時の状況が悪かった。運がなかった。いやいや実はこういう意味もあったのだとか、あの人が悪かったのだ、などとも言う。要するに、本来の自分は有能であり、正しく、しっかりとしていることを確認した上で、あの時のあの状況がなければ、こんなことになっていないのだと言い訳をしている姿なのである。

 あるギャンブル依存の方は、百万円単位の借金をギャンブルで作りながら、「たまたま妻がギャンブル嫌いなので、問題になってしまった」と真顔で、我が身の不運さを嘆いていた。ある犯罪に関わってしまった方は、「自分は意志が弱かったので、あんなことをしてしまった。でも意志が弱いのはあのときだけで、本当の自分は意志は強いので、これからは平気です」と意気揚々に言われた。
 この2人に見るように、背伸び・強行突破の息切れ状態に足をすくわれると、自分の本当のあり方を顧みることができなくなる。「背伸び・強行突破」とは、それほど自分の弱さを認められない生き方なのである。

 背伸び・強行突破の典型であった使徒パウロは「わたしが弱いときにこそ強い」(第2コリント12:10)と告白している。彼は信仰により、自分の弱さを受け入れ、真に悩むことのできた人物だと言える。そして、自分が失敗したとき、行き詰まったとき、その原因を自分にあると考えることのできる人は真に強い人だと言える。


 

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1章2話「二つの反応と問題」
2009.01.05 Monday 18:26

 1章2話「二つの反応と問題」

 実は、「甘え・へたり込み」型の人への援助は、素朴に心配してあげ、サービスをしてあげ、日常的で常識的な善意を相手に伝えることで、一定の効果をあげることができる。少し問題がこじれてしまったら、本人の自立の姿勢を尊重し、極力見守り、励ましていくのがよい。

 しかし、「背伸び・強行突破」型の人には、援助をしようとする人が見立てや見通しのないままにかかわると、かえって事態が悪化していく。「背伸び・強行突破」型の人は、こじれていくと、他罰的で攻撃的な面を出してくるので、周囲も精神的に大きなダメージを受けかねない。深刻な場合には、ここから出てはいけないと限界設定を行い、本人が抱える問題に直面できるよう「対決」していくことになる。そして地に足のついた生き方ができるように方向付けていくのである。

 精神病理的にみると、「甘え・へたり込み」型が高じ、極端になっていくと非常に内向的で、非社会的な方向で問題が生じやすくなる。「よくうつ状態」「ひきこもり」「神経症状などの心の病」といた状態も、単純化すればこうした延長上に位置づけられることがあると思う。
 逆に「背伸び・強行突破」型が高じ、その息切れが始まると、行動的で、反社会的な方向に問題が生じやすくなる。「トラブルメーカー」「パワーゲーム」「問題行動」「犯罪」「依存症」なども、単純化すればこうした延長上にあるものと思う。

 まさか私はそこまではいかない。まさかあの人はそんなはずがない。

 そう、思うかもしれないが、こうした問題は連続している。たとえ「まさか」と思っても、大きな問題につながる連続した線上に私たちは立っているのである。「まさか」のなかにある「でも」の部分をきちんと見なければならない。

 そして、この「甘え」と「背伸び」の見立ては、対応方法が正反対といっていいほど異なってくる。
 自分自身の課題を考えるうえでも、甘えを克服し、自律した積極行動に出れるようになることなのか、背伸びの息切れを認め、地に足のついた堅実な行動をとれるようになることなのか。そのあたりを見極める智恵が必要である。この見極めを間違えると、かなり混乱していくことになる。
 また、気になるあの人を援助・指導する際にも、へたり込み状態にあることを察し、見守ってあげるべきなのか、あるいは暴走させないように、明確な枠組みと目標に方向付けてあげるべきなのか。これもかなり違ってくる。ここはじっくりと考えたいところである。

 

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1章1話「ピンチのときにこそ」
2009.01.05 Monday 18:23

1章:なかなか立ち止まれないクリスチャンライフ 
1章1話「ピンチのときにこそ」

 私たちは、ピンチのときにこそ、本当の自分を出す。
 困ったときに、いかに対応するのか。その積み重ねで、私たちの人生は決まっていく。

 ・・・道に迷ったとき。忘れ物をしたとき。失敗をしたとき。重要な目標を達成できそうにないとき。人とうまく折りあえないとき。大切なものを喪ったとき。健康を損ねたとき。経済的に窮したとき。

 人生は、様々なピンチがめんめんと続く。
 そして私たちはその都度対応を迫られているのだ。

 あるときには、精神論、根性論で、「やるっきゃない」「なせばなる」と自分に言い聞かせながら、ひたすら強行突破しようとする。
 またあるときには、ことなかれ主義に徹して、課題を後延ばしにしたり、早々にあきらめて、人からの援助を期待したりすることもある。
 前者は、「背伸び・強行突破」型、後者は「甘え、へたり込み」型の反応と呼ぶことができる。
 どちらのやり方が良いというのでない。むしろ私たちは、状況に応じて、どちらの反応も柔軟に使えることが大切なのである。ところが、その人の許容量を超えて厳しい状況が迫ってくるようなときには、不思議なもので、人はどちらか片方の反応をより多く選択するようになる。さらに追いつめられるとどちらか一方ばかりを選択するようになる。そして、人は、このように硬直に選択し続けるなかで、様々な問題に及ぶのである。
 「背伸び・強行突破」ばかりでいくようになると、ご本人は、(本当は困っているのだが)誰かに助けてもらうという思いを持てず、周囲の指導者や仲間が援助の手をさしのべようとしても、ほっておいてくれと拒絶的になる。多少、社会性があると、平気です、普通です、こんなもんですよ、と穏やかな言葉になるが、しかし、助けは要らないという拒絶姿勢は同様である。いずれにしろ、ひたすらこれまでどおりのやり方で頑張り、強行突破をしていこうとする。
 その本質は、自分の弱さを認められない生き方であり、だからこそ自分の力で過剰に頑張る生き方といえる。
 一方、「甘え・へたり込み」ばかりでいくようになると、冒険や挑戦ができなくなる。いつも問題に圧倒されてしまいがちで、自信が持てない。周囲に対しても、助けてほしいという思いが先立つ。そして、先に進めず、立ち止まってしまう。
 その本質は、失敗や敗北する自分を徹底的に回避する生き方だともいえる。

「背伸び・強行突破」型が、自分の強さ・有能さを過剰に表現するのと対照的に、「甘え・へたり込み」型は、自分の弱さを積極的に表現する傾向にある。
 また、前者は、一途であるが、頑固、強引という印象を、後者は、素直であるが、もろく、頼りない感じを周囲に与える。

 あなたは、どちらの反応を選ぶことが多いだろうか。また最近、ピンチに遭ったときに、どちらの反応で決着をつけただろうか。背伸びし、自分を頼りとしすぎたり、甘えて、他人を頼りとしすぎたことはなかっただろうか。
 そしてあなたの周りにいる問題を抱えている人は、どちらのパターンで失敗しているのだろうか。本書では、この2つの反応パターン、とりわけ「背伸び・強行突破」型に着目し、そのことで生まれている複雑な問題を解きほぐしていきたいと考えている。

 

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