「心臓を貫かれて」(マイケル・ギルモア著)を読んで
2012.04.29 Sunday 21:56
 


 「心臓を貫かれて」(上下、文春文庫)マイケル・ギルモア著

 村上春樹の翻訳ということで、けっこう前に購入し、斜め読みしていた本。今年に入ってから再び−今度は精読で、読み直してみた。やはり、おもしろい。

 殺人犯の実弟が著者で、兄を含め、不遇な家族関係を振り返り、そこで止まらずさらに上の世代までさかのぼって、家系の残酷な秘密を探る。

 犯罪臨床家としての感想・…

 .▲瓮螢移民のころまでさかのぼるところはお見事。一人の人生を受け止めるには3世代はさかのぼる必要がある。

 ⊆分の肉親の話であるが、肯定否定に偏らず、冷静に描こうという姿勢に圧倒される。

 常習犯罪者の葛藤、犯罪行為自体が適応努力としてはめ込まれているかのような苦しさ、本人のせいとは言えないような生育史上の負因(兄の場合、深刻な虐待経験)などがよく描けている。よく、犯罪臨床は、他の心理臨床の人にはわからない重さがあると言ってきたが、この本を読むことで、その雰囲気の一端がうまく伝わると思う。

 し彩浬蠅覆俵裟技楡澆瞭きかけもリアル。犯罪臨床家の不毛感のようなものもよく描けている。

 ッ者はライターとしてひとかどの人になるが、結婚も含め、親密な人間関係では、うまく結べていないように思われる。とことん関わることに不安を抱えているからだが、そこにも本人が、兄を含め、家族、兄弟の悲惨な運命を思うことが関係しているのであろう。

 3月終盤、4月初旬は、最後のくだりで、兄の死刑が確定し、銃殺刑になるのだが、著者の家族と一緒に、暗いトンネルをくぐるような心境だった。村上春樹の翻訳の文体もここち良かった。
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村上春樹を三度読みふける(前)
2011.05.27 Friday 17:09
 

 「海辺のカフカ」。

(1)

 主人公の15歳の少年・田村カフカは、夜行バスで東京から四国に向かう。そこからこの物語が始まる。そのとき、雨が降っている。緊張の四国での生活でトントン拍子に話が進み、森の中の隠れ家に身を寄せるとき、やはり激しい雨が降る。物語の結末でも、雨が降る。

 そうそう、ナカタさんたちが、「入り口の石」を開けるときも豪雨だった。

 「海辺のカフカ」は、村上春樹の最も典型的な「雨の降る物語」であると思う。

 雨は、洗い流しの再出発の象徴としてきれいに機能している。

 実は、今回、「海辺のカフカ」は新潮文庫(上・下)で読んだ。加えて、私の手元には、単行本の「海辺のカフカ」の上巻(だけ)もある。記憶を辿ると、拙著「雨降りの心理学」のある章を、村上春樹の小説を素材に書こうと思い、私以外全員が春樹ファンであった家族に推薦を請うた。すると、「国境の南、太陽の西」と「海辺のカフカ」を勧められた。

 すぐに私は、「国境の〜」を文庫本で、また「海辺のカフカ」を単行本(まだ文庫が出ていなかった)で、それもとりあえず上巻のみ、入手した。まず「国境の〜」を読んだ。過去を洗い流す「雨」が実の象徴的に描かれているようで、非常に興味を抱いた。そして、すこし原稿として書くために、アウトラインを書き出してみた。…すると、同じ過去の洗い流しという解釈は共通のモノの、2,3のまったく異なった解釈が出来てしまった。とりあえずひとつに絞りこもうとしたが、うまくいかなかった。
 結果的に、村上春樹の章は、ごっそりそのまま割愛し、「海辺のカフカ」は手を付けずじまいで終わってしまった。…いまなら、「海辺のカフカ」で、書くことができるのに、という思いである。

 さて、村上春樹の作品は、デビュー作から、一貫して主人公が、社会に自然体で順応できず、いつも外から眺めていることが特徴だと述べた。しかし、それも神戸震災、オウム事件を転換点に、変化しているように思う。

 この「海辺のカフカ」の主人公は、黒川さんの好意で、森の中の隠れ家(小屋)に行くが(15章)、それで終わらない。彼は、「社会と人々の営みの中に戻っていく」(17章)のである。そして最終コーナーでは、森の奧の神秘な世界から、現実の世界に大きな決断をもって帰ってくる。そして、物語の結末は、彼が東京に帰り、警察にすべてを話し、学校に戻ると言う。

 まさに、社会の中に戻ろうとする物語である。それは根深い孤立から、周囲との関わりを探り、成長していく物語である。

 場所が四国というのも良い。カフカもナカタさんも、「大きな橋」を渡って、到着するからだ。橋を渡るのも、自分の新しい人生段階に突入することを実に象徴的に表している。

 なお、父なるモノを殺し、母なるモノを犯す、というテーマも、人の発達の通過過程での象徴的な体験である。

 ついでながら、ある登場人物たちの穏やかさ(田村カフカ、佐伯、ナカタ…)と彼らの影のように登場する人物たちの残忍さ(ジョニー・ウォーカー、取り憑かれたナカタ…)の段差も印象に残った。

  
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村上春樹を読み続ける(前)
2011.05.03 Tuesday 20:57



(1)

 「ダンス・ダンス・ダンス」。

 デビュー作から、初期の代表作「羊をめぐる冒険」までの3作品はシリーズになっている。そしてこの「ダンス〜」は、「羊をめぐる〜」のその後を描いた完結編である。

 「ノルウェイの森」以降、小説の3人配置を気にするようになった。繊細でどこか内閉、病的な直子。社会に違和感を抱え、動き回るが出口が見えない「僕」。そして、現実の世界に生きている「緑」。「僕」は、緑を通して現実世界につながる希望を持っている。

 ちなみに、アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」。これも3人配置だ。綾波レイは、直子。アスカが緑。そしてシンジが僕。

 そして「ダンス〜」では、あいかわらず生きづらそうな「僕」が登場する。キキが直子。ユミヨシさんが緑。それぞれ重なるのではないだろうか。やはり3人配置である。

 ただし、3人とも成長していて、健康的な部分が増えている。とくに、ユミヨシさんは、仕事に疲れながら、習い事もしながら、社会人として懸命に生きていて、親しみを覚える。



 「ユキヨシさん」は、「僕」が滞在するホテルの従業員で、仕事の短い休憩時間に、そおっと「僕」の部屋にきて、横に座り、「僕」に肩寄せる。プラトニックなまま無言ですごし、そして時間が来ると、本来の仕事に戻っていく。

 村上春樹の小説に登場する、不器用で貧しい交流しかできない人物たちが(そしてそれは現代人の姿でもあるのだが)、その険しい環境と不器用な姿のまま、人とつながりあい、信頼しあうとすると、案外、このようなかたちに辿り着くのかもしれない。悲しいようで愛しい描写である。

 付け足しながら、私は、この描写を読んで、思い出した韓流ドラマの場面があった。それは「魔王」である。(…キキとヨシナミさんを足して二で割ったような超能力者の女性「ヘイン」も登場する)。

 この「魔王」の最後の場面は、張り合い、戦いあう(しかし次第に相手の良さをも感じとり始める)二人の男性が命を落とし、ふたりとも同じ場所に座り込み死んでいく。そのとき、殺人者スンハ(チュ・ジフン)が、刑事オスの肩にもたれかかるのであった。最後まで、人を信用できず、愛を拒み、孤独に死を目ざしたような男が、不器用に最後の最後に、オスにもたれかかる。やはり悲しいようで愛しい描写である。



 「ダンス〜」のユニークなところは、村上春樹の小説には珍しく、謎解きというか、解釈まで明かされていることである。キキという謎の女性が主人公の僕の夢のなかに現れ、こう言う。

 キキも、羊男も、どれも、主人公を導いている存在ではない、あなたの心の影なのだと。

 うーん、ユング心理学だ。そこまで概念を特定しなくても、非常に謎解きを示してくれる展開で、曖昧模糊とした神秘的な村上作品にしては、すっきり感を味わえる。



 ついでにいえば、小説の主要な舞台、ドルフィンホテルは、ヨシユキさんも勤める実在のホテルとして描かれているが、謎解きでは、主人公の精神世界でもあるのだと説明されている。


 さて「ダンス〜」を読んで感じたのは、人の統合の物語であるということだ。

 まさに登場人物が総出で、ひとつの統合に向かっているかのようである。

 羊男が言う。

 「あんたが求め、手に入れたものを、おいらが繋げるんだ」と。

 キキや羊男だけではない。
 牧村氏と五反田君の二人も、実は僕の分身で、あえぎながら、何か統合に向かっているように見える。

村上春樹を読みはじめる(中)

村上春樹を読みはじめる(後)


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走ることについて語るときに僕の語ること
2011.01.22 Saturday 22:26



村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」(文春文庫)。
これは、彼のマラソンと、それを比喩にして語る自分自身の人生を扱っている。
そこには、彼の描く小説の主人公たちの病理性(内閉と非道徳)とは違った(しかしどこか低通している)自己研鑽家の村上春樹が見えて、面白い。
もの作りのプロの現場の普遍性も感じた。
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村上春樹が好きになれそうもない人のための読書指南
2011.01.17 Monday 23:24
 村上春樹の作品を読むと、大嫌いに思う人と、はまる人と2種類しかいない。

 ここでは、どうも好きになれそうもないと思う人のための読書指南をしたい。
 
(1)まず次の作品のいずれか、または両方を読む。
  
 『走ることについて語るときに僕の語ること』<エッセイ>
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく 』<エッセイ>

(2)ついで次の作品のいずれか、または全部を読む。

 『ダンス・ダンス・ダンス』 (冒険ファンタジー系列の初期の作品)
 『ノルウェイの森 』か 『国境の南、太陽の西』(リアル系列の初期の作品)

…どうでしょうか。 
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村上春樹を読みはじめる(後)
2010.12.25 Saturday 10:36
 


(3)

「ノルウェイの森」。
 これは、先の「羊をめぐる冒険」のような冒険物語ではない。恋愛物語である。それも、人との出会いと別れを執拗なほど繰り返す回想の物語である。

 主人公のワタナベが、偶然かつての友人の恋人・直子と再会する。そして交際が始まる。

 このワタナベは、「羊をめぐる冒険」の主人公と同一人物かと思わされるほど、似ている。やはり、冷静で、社会を外から眺めている。人と自然と親しくなったり、社会に自然体で順応していくところがない。苦手なのだ。

 だから人との出会いと別れが、非常に不安定というか、繊細にというか、独特に描かれる。

 別れの多くは、大切な人の「自死」というかたちで訪れる。かつての親友も、直子も、さらに幾人かの人も自死し、ワタナベに突然の別れをもたらす。

 また出会いも唐突で、とりわけセックスの扱いが端的にそのことを表している。すなわち、行きずりの自暴自棄的なセックスは平気でするのに、愛する人との関係では病的なまでにままならない。

 さて、この小説でも、主人公に対するふたつの生き方を私は感じる。ひとつは、ワタナベであり、もうひとつは、永沢。主人公が住む学生寮の上級生で、冷徹なまでの合理主義と、人を人とも思わぬような自己中心主義を貫いている人物である。

 ワタナベは、この永沢にどこか惹かれながらも、軽蔑する。永沢の生き方は、ワタナベが選択したかもしれないもうひとつの生き方なのだが、やはり選ばなかった生き方なのである。たしかに永沢は合理主義を推し進めていき、社会的にも表面的な順応をしていく(外交官になる)のだが、その果てには救いがない。人との関わりを破壊してしまう更なる孤独の世界が待っている。

 また、異性像としてもふたつのタイプが登場する。ひとつは直子。病的なまでに(というか病者として)内閉し、傷つきやすさ、生きにくさを持ち、沈黙のなかに埋没しているかのような人物である。もうひとつは、緑。社交家で、饒舌に語るが、そのことで、心の奥底の防衛というか保守性を隠している。彼女も極端なひとつの異性像である。

 ワタナベは、このふたり、直子にも、緑にも、惹かれていく。彼は直子には能動性を発揮し、緑には受動性を暖めて、関わっていく。孤独で自然体で人とつながれないワタナベにとって、この2つの対照的な異性との関わり方が、人とつながっていく2つの可能性なのだと思う。

 ただし、直子は、ワタナベと一緒に暮らすことを選べず、自死する。次々に現れる人物たちの、どの生き方も関わり方も先の展開や希望がないのだが、唯一、緑だけに余韻が残される。具体的な希望はないのだが、破綻や滅亡には至っていない。これからどうなっていくのだろうか(どうなり得ていくのだろか)というところで、尻切れトンボのように、この小説は終わる。
 
 この後の村上春樹の小説群で、その活路をたどっていくしかないのかもしれない。
                                 
                    (この項終わり。ほどなく、「村上春樹を読み進む」に続く )
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村上春樹を読みはじめる(中)
2010.12.24 Friday 20:18
 

(2)

「羊をめぐる冒険」。
これは、彼のデビュー作「風の歌を聴け」、そして「1973年のピンボール」に次ぐ小説で、初期三部作とも、青春三部作とも呼ばれるシリーズのトリの作品である。

 デビュー作から、この「羊をめぐる冒険」まで、一貫して、主人公の「僕」と、友人の「鼠」(ネズミ)が登場する。二人は、似ているところも多いが、本質的には相補的だ。

 「僕」は冷静で世捨て人のように、社会や人を見つめている。
 「鼠」は、小説を書き、恋に悩む、純粋さと年齢相応の野心が同居する若者だ。金持ちの父親を嫌うなど、世俗性を捨て、純粋さを保とうとしている。

 私には、「僕」と「鼠」、それぞれの生き方は、社会に順応(あるいは迎合)しない若者たちの2つのパターンをきれいにあらわしているように思える。

 まず「鼠」。
 彼は、世俗性と純粋さの統合ができない苦しさを味わっているように思える。

 人は、純粋さだけを求め、自らのうちに不純で未熟で世俗的なものがあることを認められないと、必ずどこかで行き詰まり、皮肉なことに、足下をすくわれてしまう。結果的に、世俗と打算の権化のような生き方に反転してしまうことになりかねないのだ。

 ある日、「鼠」は「僕」にも告げず、街を出て、小説も恋人も捨て、北海道の田舎にある、父親の残した別荘に流れ着くのである。そして邪悪な支配者である「羊」に乗り移られてしまう。(急に物語はファンタジックな展開になる)。そこで、彼はそのことを拒み、自殺を選ぶ。

 この展開を「統合」というテーマで読み解くと、「鼠」は純粋さの戦いに行き詰まり、敗れ、一転して、対極の側に反転したのである。嫌いな金持ちの父親の別荘に行ったのもそうだし、邪悪な「羊」に乗り移られる、などという展開も、まさに比喩的にそうした事情をあらわしていると思えるのである。

 そして「鼠」は、なすすべがなく、最後の抵抗として死を選んだのであった。これもあえて比喩的に読むなら、人が若者時代を終え、かつての純粋な自分を殺し、世俗の権化のような生き方に邁進していく大人をあらわしているようにも思える。(「ノルウェイの森」で、学生運動をしていた活動家がいつのまにか大学に戻り、普通に就学する場面を思い出す。)

 「鼠」が小説の最後のほうで、北海道にまでやってきた「僕」にいろいろと告白する場面がある。その中で、「鼠」はこう言う。

 「結局のところ、俺が羊の影から逃げ切れなかった」と。

 彼に乗り移ろうとした「羊」というのは、実は「鼠」の青春時代から、彼の心の隅に住み続けていた影のようなものであるのである。

 さて、最後に、 「僕」の生き方を考えてみたい。

 「僕」のなかには、どこかに「鼠」の生き方に近いものを持っている。鼠が小説を書くことを好んでいたように、僕もまたどこかで小説に親和し、実際、30歳近くなって、この小説を書いたという設定になっている。ただ、二人の小説は対照的であるし、その他のもろもろのことも、よくみると対照的なのである。
 
 「鼠」は、いわば「僕」がもしかしたら選んだかもしれない生き方を体現している「もう一人の私」なのである。しかし、「僕」は「鼠」の生き方を選ばず、最初から人や社会に距離をとり、外からそれらを見る生き方を選び取った。そのため、「鼠」のような純粋さと世俗さの分離の問題に直面せずに済んでいる。しかし、「僕」にも救いはない。醜さも、弱さも、世俗性も、解決の道が見えないままであるからだ。

 「鼠」の生き方は挫折した。「撲」の生き方は、まだ挫折はしていないが、次なる道もまったく見えない。このひとつの小説では完結せぬままに、今後も脈々と続いていく村上春樹の小説群のなかで、その道を探していかねばならないのかもしれない。

 しかし、この孤独と未完の世界こそ、現代人の心性を端的に表しているとも言える。それは、社会と戦う世代を横目に、社会を外から冷ややかに眺める世代が台頭し、現代が、いわばアスペルガー心性を色濃くしはじめたことを示している。
                                            (つづく)                                                                                                      
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村上春樹を読みはじめる(前)
2010.12.23 Thursday 09:05


(1)

 以前、拙著「雨降りの心理学」の一部として、村上春樹の『国境の南、太陽の西』を丹念に読んだことがある。「過去の喪失経験の癒し」としてきれいに解釈できると思ったが、本の一部として書くことには躊躇があった。

 なぜならば、もっと大きな村上ワールドをあわせ論じないと、個々の指摘はOKでも、全体としてピンぼけしてしまうように思ったからだ。この村上ワールド自体、論じるのがなかなか難しい。

 今回、初期の作品を4編読んでみたが、村上ワールドの輪郭がおぼろに見えてきた。

 現時点で、3つの特徴があるように感じている。

 ,泙此⊆膺邑が、社会のなかにおらず、たえず社会の外にいることだ。自然体で社会や人間につながることができず、出会いも別れも、過度に苦闘する。孤独という表現を使うなら、かなり深い孤独だ。

 △弔い如比喩やファンタジーが多用される。また、登場人物や状況の基本情報も明らかにされないことがある。

 最後に、作品ごとに、作品が進化し、作家が挑戦し、成長している。普通の作家より、一作ごとの進化が大きい。作品ごとに次なる作品での次なる展開を期待させるし、実際、複数の作品に、類似のエピソードや人物が繰り返し登場する。

 村上春樹を嫌いだと言う人もけっこういる。
 それは、仝鋲箸任覆た諭△△襪い録佑孤独であることを考えないことにしている人、ではないだろうか。△泙疹説に、言葉による筋や構成の巧みさを期待している人、あるいは理想や解決の希望を期待している人、ではないだろうか。

 逆に、いったん村上春樹にはまると、作品群を読み続ける必要を感じてしまう。なにせ毎回、作品は完結しておらず、次作へ、次作へと、作品も作家も進化・成長していくのであるから。
                                                    (つづく)
 
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藤掛 明
雨の心理的イメージを鍵に、雨の降る物語を読み解く。カウンセリング論であり、人生論でもある。
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