金嬉老(きんきろう)事件を想う(2)
2010.07.07 Wednesday 12:21
 
 かつて、このブログに「金嬉老(きんきろう事件を想う(1) という記事を書いた。ずいぶん昔になる。あくまでも臨床心理学的な観点から書き始めたのだが、いまでも検索でこの記事にやってくる方々が、コンスタントにおられる。
 
 その後、2つの点で、このテーマに節目が訪れた。

 第1。2010年3月26日、釜山市の病院で、前立腺がんのため、彼が死去した。享年82歳。遺骨は、本人の希望により静岡県掛川市に納められているという。

 第2。実は、連載は(1)にして、挫折してしまった。
「事実上、続きの部分は、ところを変え、(臨床心理学のケーススタディとして読んでいただくために)心理の雑誌かそれに準ずる場所に、出そうと思っています。今のところ、イメージの心理学をテーマとする新書本で準備を進めています。」とコメント欄で最後に結んだ。
 その本が、(最近妙に話題に出していますが)この6月(ネット通販では7月初旬)に『雨降りの心理学』として上梓できた。新書本ではなかった。
 雨のイメージとともに彼の生き方についても、連想ができるだろう。…といっても大したことを書いているわけではありませんが。

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 関心のあるかたはどうぞ。(なおこの記事のコメント欄は原則受け付けません。)

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金嬉老(きんきろう)事件を想う(1)
2008.02.11 Monday 11:27
 今朝、テレビ番組スーパーモーニングが、金嬉老(きんきろう)事件について、丁寧に取り上げて報道していた。40年前の、2月20日、起きた事件であった。大学などの授業で、この事件のことをとりあげても、学生はほとんど知らない。
 ある人にとっては民族差別のシンボルのような事件であり、ある人にとっては、マスコミを巻き込む劇場型犯罪の最初の事件であったりするだろう。私にも大きな思い出のある事件であった。

 金嬉老事件とは、彼が起こした、殺人を発端とする監禁事件である。あめ
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資料:雨の中の私画テストのレジュメ
2007.08.31 Friday 10:13
*名古屋のワークショップで配布するレジュメを作った。私の中で、雨画テストの解釈の枠組みは拡張し続けている。そういう意味で、けっこう貴重? ということで掲載する。

■雨の中の私画
i 歴史
 雨の中の人物画は,ハマーにより初めて記述されたが,以前から,いろいろな学者が同時期に思いついたものと言われている。日本では,石川元や彼を中心とする浜松医大精神神経科グループによって,病院臨床への本格的な導入が図られるようになった。
髻”現狹な実施法
 実施法は,次の二つがあるが,日本では後者が普及している。
 ●「雨の中の1人の人間を描きなさい。」(原法)
 ●「雨の中の私を描きなさい。」(石川元ら)
 ハマーの原法では「雨の中の人」であるが,石川らは,病院臨床での試行から,「人」という刺激語では,描画中に自己像と容易に結び付かない集団があることや,抽象表現の人物がより多く出現してしまうことがわかったため,ストレスを体験する主体が自己であることを明確にする目的で,「人」ではなく「私」を採用したという。以後,この「雨の中の私」の方が日本では定着している。
鵝ヾ靄榲解釈
  ̄をストレスの象徴としてとらえる。◆峪筺廚いかに雨を防ぎ、あるいは折り合うのかを、ストレスに対する対処様式としてとらえる。
検‖緝重反応パターン
 〇韻鬚気后I現猗娠
 雨宿り。 要領の良さ。受け身。
 2箸涼罅 洞察分析型。逃避型。
 で┐譴襪ままで「私」はつらい。適応の危機・混乱。
后/靴靴げ鮗
  ̄に濡れるが、悪い気がしない。けっこう気持ちが良い。自己浄化、仕切直し。
 雨にわざと濡れる。もっと濡れたい。気持ちが良い!!。冒険的。強行。
此”次的サイン
 〕鳥、子ども。 庇護。自立。
 ∋院 自分の世界のバウンダリー
察‘団
 (語が生まれやすい。刻々と変化する(時間、領域)。9堝芦酬拭Ψ鮃型の人が 嬉々として描ける。す猟蠹な意味もくみ取りやすい。ド舛手も自己解釈するのが容 易。
次ーN電方法
 ”舛手が自ら解釈する。
 描き終わった作品に対して、本当はどうなるとよりOKになるのかを問いかける。
 I舛終わった作品に対して、更により良い状況にするために描き加えることを追教示  する。

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ワークショップ抄録「ストレスと描画」
2007.06.19 Tuesday 22:16
*2007年9月1日、日本描画テスト・描画療法学会第17回大会(加藤孝正会長、同朋大学)ワークショップで、午後のひと会場を担当します。抄録原稿を今書きました。(内容は最近かなり似たりよったり)。私のワークショップを受講する方。当日、お会いしましょう。
ストレスと描画

 いわゆるストレス研究などの文脈とは別に、もっと素朴に、クライエントの不適応に揺れる息づかいをいかに感じとり、またそれに、イメージのレベルでいかに応じていけるのかを扱いたいと思います。
 前半では、主にアセスメントの観点から「雨の中の人物画」テストをテーマに、また後半は、主に治療の観点から「ハガキ・コラージュ」、「アンサー・コラージュ」をテーマに、それぞれ演習中心に進めていきたいと考えています。
 なお、これらの技法は臨床の現場でだけでなく、セラピスト自身の自己訓練、メンタルヘルスにも有効なものですので、面接で絵をあまり使っていない方々にもお勧めできると思います。鉛筆2
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バウムテスト(樹木画テスト)を学ぶための本(1)
2007.05.09 Wednesday 17:06
 バウムテストの解説本が氾濫するなか、どのような基準でそれらを位置づけ、どこから手を付ければよいのか。

1.はじめに
 まず、描画テストの本質でもあるが、解釈にあたっての、二つの要素について述べておく必要がある。
鉛筆2
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記事:「描画における相互作用性〜セラピストとクライエントの関係をめぐって」
2007.01.30 Tuesday 23:12
(「臨床心理学」2007年3月号)

1 はじめに
描画ほど、様々な目的、方法で、大勢の臨床家が関わっているものはない。アセスメントのため、治療効果測定のため、治療のためにと使い方はいろいろある。また、対話の呼び水として、あるいは面接の間を作るものとして使われることもあるし、時には治療的な指示の説得材料として使われることもあるだろう。
だからというべきか、しかしというべきか、描画の扱いについての考え方は、臨床家ごとにかなり異なっている。とりわけ家族療法(システムズアプローチ)のように相互作用性を強調する勢力が参入するようになってからは、描画をめぐる臨床場面での相互作用性をどのように認め、活用するのかが大きく問われるようになり、その違いが、多様な描画臨床家を理解する軸にさえなっているようにも思われる。
本稿では、こうした描画における相互作用性に着目しながら、描画の臨床を行う上で重要ないくつかのトピックスを扱う。
 まず第一に、そもそもどのような描画種目を実施するのかについて取り上げたい。セラピストとクライエントの関係性を重視すれば、描画種目の選択やその変形実施が、両者の相互作用性の中で決まることがあると考えるからである。
 第二に、描画作品をめぐり、セラピストがクライエントとの相互作用性を深める中で、どのようにその描画情報を取り扱い、フィードバックするのかを取り上げたい。そのために描画テスト、描画療法それぞれの特質を考察する。
 第三に、描画療法について、相互作用のあり方から二つの異なる接近方法として、鑑賞型と介入型について分けて考え、最後に、この接近方法のうち、相互作用性をより直接的に扱う介入型の描画療法について取り上げ、そのフィードバックの仕方の実際を示したい。右斜め下
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記事:「非行少年に対する描画療法」
2006.12.16 Saturday 21:23
非行少年に対する描画療法

一 非行臨床における描画療法をめぐって
 1 三つの描画療法
 描画の臨床は、描画種目といい、背景理論といい、実に多様な取り組みが存在する。こと非行臨床に至っては、臨床活動が、その所属する組織や目的によって、また対象者の特性によって、細分化されているため、ますます取り組みは多様になっているといえる。
 このような多様な描画療法を概観するために、三つの方法に分けて考えることにしている。ひとつは「テスト」としての描画である。これは、テスト解釈として、ある程度客観的に描画内容の意味するところを受けとめていく方法である。描画療法としては、次のような用い方がされる。”漸茲硫鮗畩霾鵑髻⊆N甜圓亮N点鑪の参考にする、描画の解釈情報を、平易な言葉にし、描き手(非行少年)、家族、学校教師などに伝える、治療過程の中で、複数回描いてもらい、その比較から治療効果の測定を行う。
二つめは、まさに心理療法として、主観的に了解し、イメージ表現自体の持つ治癒力に期待したり、イメージの推移を治療的に受けとめ、肉薄していく方法である。
 これらはさらに、イメージの自律性を尊重し、見守っていく「鑑賞」型の接近と、即興的に次なる課題を創作し、あえて描き手の体験を創造的に提供していく「介入」型の接近とに分かれる。ちなみに「絵画療法」という場合には前者を、「アートセラピー」という場合には後者をさしていることが多いように思う。
 2 非行臨床における方法 
描画療法を「テスト」「鑑賞」「介入」と便宜的に分けてみると、非行臨床では、圧倒的に「テスト」としての取り扱いが中心であり、歴史的にも古くから盛んであることが分かる。林勝造(バウムテスト)(1)(2)、高橋雅春(HTP)(3)ら非行実務家が、現在でも読み継がれている描画臨床の著作・翻訳を著したのは有名である。
八〇年代後半になると家族画が注目を集め、非行臨床でも家族画は盛んに使用されるようになった。このころ、入江是清(4)、奥村晋(5)(6)らの論文は多くの非行実務家に影響を与えた。この家族画は、従来の「テスト」としての愛好者ばかりでなく、家族療法の興隆を背景に「鑑賞、介入」としての愛好者をも取り込むことになり、その後の多彩な描画実践の苗床のような役割も果たしていたものと考えられる。事実、九〇年代に入ると、非行実務に使われる描画として、間取画(7)、統合型HTP(8)、雨の中の私画(9)、コラージュ(10)、などの新顔が次々に加わるようになり、描画場面でのより活発な相互作用性を求めて、描画を巡る活動が多彩になってきているといえる。
 3 非行臨床における描画療法の現状
 とはいえ、非行実務では、他の臨床以上に一定の客観性を求められるため、バウムテストやHTPテストによる査定は今でも大きな役割を担っているし、家族画においても同様のことがいえる。そのため、新しい描画技法の波が起きても、それまでの古い波がすたれることはなく、多層に共存を図っているといえる。
 ところが、非行の描画テストが、統計的にも理論的にも研究され、理論化が図られ、非行特有の描画特徴などの情報も共有されているのに対して、描画療法については、実践は盛んに行われているにもかかわず、議論も研究も不可発である(注)。通常は、一般の鑑賞型の描画療法の原則、方法を準用するにとどまっている(11)。
 本稿では、非行臨床やそこでの描画療法の独自性を明かにし、多様な描画のアプローチを一つの軸で説明することを試みた。また、今後の非行の描画療法の展開を考えるにあたって大切となるトピックスを論じた。

二 非行臨床の独自性−筆者の観点
 1 非行臨床の独自性
 あるベテラン・カウンセラーが、同じ中学生の問題児を担当していても、不登校で引きこもる生徒と、夜遊びなどで動き回る生徒では、関わり方がまったく違うと言っていたことがあった。引きこもる生徒は、勇気づけながら、いつ動き始めるのかを待つのであるが、夜遊びの生徒は、いつ動き回るのをやめて立ち止まるのかを待つというのである。これは、病院や教育相談の臨床などと比較した場合の、非行臨床の特徴をよく言い表している。非行少年たちは、激励しても規制を加えても、法的処罰という脅威を与えても、かえって火に油を注ぐようにひたすら動き回っていく。そうした姿を、どの実務家も指導者も実感として抱いているであろう。どのような描画の扱い方であっても、非行臨床の対象者の奔放な動きに応じた戦略が必要になるのである。
 筆者は治療的観点から次のような非行理解枠を提示している(12)。
 すなわち、そもそも非行行為は、適応努力の一種としての性質を持っており、過重なストレス下に、積極的に背伸びをして行動化していく果てに生じるものであると考える。無理を重ねて背伸び・強行突破を続けるとき、人は息切れ状態に陥るが、そこでその自分の状態を認めて立ち止まれないと、様々な問題が生じるのである。
 もっとも立ち止まれない、極端な背伸びの生き方の背後には、無力感や疎外感をやみくもに否定しようとする機制が働いている。だから、背伸びを止めて、自分の弱さを認めたり、弱音を吐くことは、無力で寂しい自分を直視せねばならず、当人からするとそれは怖ろしく辛い作業になる。一度認めて、へたり込んでしまえば、頑張る元気も出てこないし、これまでのすべてが壊れてしまうような感覚があるのである。筆者はこうした生き方を総じて「背伸び」と呼び、その機制を「無力感、疎外感の否定」といっている。
 これは、けっして意識上の明確な葛藤でもなく、無意識の抑圧でもない。いわば前意識上の感情の処理である。本人は必死に否定しようともがいており、少しでもその否定のやりくりが崩れると、激しい自己直面化の嵐に遭うことになる。抑圧は本人も周囲も気がつかないことが多いが、否定は端から見ると滑稽なほどに見えてしまう。
このような非行少年たちは、事件をはじめ自らの失敗について、後悔はするが、けっして悩んだり、内省したりしない。あのときの失敗は、「たまたま」「運悪く」起こったものであり、「悪友の誘惑」や「あの場所」、時には「あの時だけ意志が弱くなったこと」がいけなかったと後悔するが、自分の生き方の弱さの問題として振り返ることはあまりなく、これまでどおり自分の頑張りを通せばうまくいくと主張する。
 彼らに、今後の生活について話してもらうと、怖ろしく再出発の決意は勇ましい。もう絶対悪いことはしないし、バラ色の未来が待っているかのようなことを真剣に言う。そして経験的にはその決意が勇ましければ勇ましほど、次の挫折が早くやってくる。なぜなら、そこに強力な悪循環が形成されているからである。
自分の背伸びの息切れ状態を認められず、これまで通りに頑張ろうとする、その本人の努力が、次のより強い息切れ状態を作ってしまうのである。その循環は雪だるまのようにふくれあがり、破綻に向かうのである。その破綻のあり方は、非行少年ごとに異なり、いわば無力感や疎外感の程度、またその否定の強弱、そしてそれを埋め合わすもの(代償行為)への親和性などで様々になる。おおざっぱに言えば、不良交友や粗暴非行、暴走族など、みな背伸びの末、最後の最後に、惨めな自分を認めまいと、必死に自己拡大感を味わおうとしている姿なのである。
 2 非行描画の独自性
非行少年の生き方を「背伸び」型と考えると、非行少年の描画もまた同じ文脈でとらえることができる。
非行の描画では、樹木やその他の事物は大きく描かれることが多く、力強く、時に乱雑に線が引かれる。また陰影が粗雑に施されることがままある。そこには、外界からの圧力や摩擦にへこたれず、必死で絶え、むしろ向きになって自分を強く見せようとする姿がある。まさしく「背伸び」型と言える姿が画上に現れているのである。
家族画のように社会的要素が加わった場合も事情は似ている。非行少年たちは、深刻な家族葛藤がありながらも、実に懸命に家族の絵を描いてくれる。描きたくなければ描かなければよいのであるが、無理をして家族や人物を描くのである。彼らの描画の特徴として、人物像の手や口の省略や強調が見られる等、思いのほか、家庭内の人間関係の不安定さを小技で表現する。また一転して小さいサイズの家族群や、鳥瞰図の見下ろし画として表現することも多いが、これらは画面構成上の工夫でリアルな家族像をかわしているものであり、日常性や情緒性を巧みに抜き取り、自分の折り合える家族のイメージを必死に探している姿と理解することができる。
 家族画解釈にあたっては、ややもすると家族の否定的なサインを探すことに目を奪われがちであるが、実はそれほど深刻な家族関係の中で、それなりの家族イメージをよくぞ作れているということに注目するのが非行の描画療法では重要である。
 非行の一般描画が背伸びをした自己像を表現しているように、家族画もまた、無理をしながら家庭に折り合おうとしている描き手の姿を表現していると考えられるのである。
 3 治療戦略
非行少年の生き方を「背伸び」型であるとし、その描画もまた「背伸び型」の文脈で受けとめることができると考えると、描画テストでは、描き手がどのような背伸び・強行突破の傾向があるのかを受けとめるのが最大のポイントになる。外界や社会的集団にどのようにかかわり、どのように自己をとらえているのか、それも撤退したり、弱音を吐かずに、どのくらい硬直に頑張ろうとしているのかを見るのである。
 また、非行の描画療法では、そうした背伸びの生き方をイメージの中でどのように描き手自身が自覚、洞察し、受けとめようとしているのかの流れを見ることが最大のポイントとなる。華やかで景気の良いイメージが描き出されても、それはこれまで通りの背伸び・強行突破の生き方にすぎない。自己直面化し、「背伸びをせずに、自分なりにやっていくしかない」と良い意味で開き直れるようなプロセスを経て、初めて非行から離れていける生き方に変化したと言えるのである。
 特に介入型の描画療法では、息切れを抱えながら動き続ける彼らに、絵の持つイメージを共に見つめ、意味づけていく作業を通して、背伸びの生き方を和らげ、その背後にある悪循環の連鎖を絶っていくように働きかけることが重要になる。たとえば、描き手の硬直した認知フレームを揺さぶり、背伸びを止めて立ち止まっても、弱音を吐いてもかまわないのだという「新しい意味づけ」を個々の描画の中で与えたり、面接者として「この絵にはこういう意味があるので、今後、こうできるのではないか」という助言の根拠に絵を使うことができるのである。

三 非行臨床における描画療法の今後の展開
 1 介入的な方法
先に描画の扱い方に、「テスト」的方法、また「鑑賞」的、「介入」的方法があると述べた。描画の臨床では、まず「テスト」的な力が基盤にあって、その上に「鑑賞」の力、さらにその上に「介入」の力が重なり立っていると筆者は考えている。「テスト」を軽視しては、恣意的、帳尻合わせ的な描画療法になりかねないし、「テスト」だけに満足していては、描き手の内的変化、可能性に無頓着なままで終わりかねない。実際には、対象者の特性や与えられている面接の目的などにより、「この描画は、テストとして扱う」、「この描画は、療法まで視野に入れる」、「今回はあえて介入する」といった使い分けが自然に行われるように思う。筆者の臨床では、かつて少年鑑別所勤務時には、主に「テスト」として、少年院勤務時には主に「鑑賞型の心理療法」として自然に扱っていた。
 ただ、多くの非行臨床は、法的システムのもと、面接や指導のできる期間の制約は非情なほど厳密で、非行が再発した際の本人、被害者、社会のダメージも深刻なものがある。そこでどうしても一歩踏み込む必要のある時もあり、筆者は時に「介入」的にかかわることの重要性を感じている。今後、非行臨床特有の介入方法を試行し、開拓していくことが、非行臨床の課題である。
 2 非行イメージそのものを扱う方法
非行臨床の実践の中でも、非行そのもののイメージを心理テストや心理療法で扱うことはあまりなかった。むしろ非行の根底にあるその人の不適応状態を扱うのが通常であろう。 しかし、査定目的であれば、特殊な、あるいは新奇な非行の場合に、その非行イメージをクレヨン画、コラージュ、分割描画などで表現してもらい、その心理的な実態を探索的に明らかにしていく方法となり得る。
また治療目的であれば、同じ非行を経験した者のグループを作り、非行イメージの描画を各人に描いてもらい、互いに感想を交換するような方法がある。
 筆者(13)の場合、少年院の非行問題別指導という枠の中で、「ひったくり非行」の少年たちを集め、コラージュのグループワークを継続的に実施したことがあった。「ひったくり」イメージの多義性と、活発な討議を引き出すことができ、参加者に一定の洞察を付与することができた。
 このように非行イメージそのものを扱う方法についてもまだ開拓期であり、非行少年の贖罪教育の重要性が叫ばれる昨今、ますます取り組むべき分野になっていると思われる。
 3 「背伸び」型の生き方を描画で扱う方法
 非行の描画は、それがどのような種目の描画であっても、描き手の「背伸び」型の生き方が大なり小なり読み取ることができる。筆者の経験では、読み取るにあたってもっとも「大なり」な情報が得られる描画として、「雨の中の私」画をあげることができる。この描画ほど、描き手の「背伸び」型のあり方を直接的に扱えるものは他にはないように思う。
「雨の中の私」画は、起源においてはストレス状況下の身体イメージを探るテストとして米国で始まったものであるが、日本の非行臨床に導入されるにあたって、「雨の中の私、という題で」「雨と自分が描かれていればほかは何を描いてもかまわない」といった言い回しの教示に微変化させている。そのため、暗に社会的要素の混入(背景、舞台の描出)を促し、社会適応における背伸びのあり方を探るテストとして独自に発展してきている(14)。また、「雨がストレス。雨を避ける人の姿がストレスに対する描き手の防衛スタイル」というメタファが明快で、描き手にも了解しやすく、描画後の対話や介入型の接近にも非常に好都合である。
今後、この「雨の中の私」画をよりいっそう普及させると同時に、これを用いた様々な描画療法を研究、蓄積し、さらなる描画療法の新たな試みを創出していくことが、今の筆者の最大の課題である。

(注)例外的に、非行少年の家族関係に関連した描画については、家族療法の立場からの介入型心理療法の報告がある。廣井(15)は、間取図画の実践から、現実と理想の二枚の描画を描いてもらうことで、「家族のかたちの解体と再構築」を促すことを、また、山崎(16)は、交互色彩分割法の実践から、「家族の間の調整、居場所の創出」を提示している。ただし、これらの研究は、非行の描画療法特有なものを提示するのでなく、非行以外の様々な臨床にも普遍化させ得る、いわば共通性を探求しているものである。
 また、コラージュ療法の台頭により、最近では非行のコラージュ療法が活発で、様々な立場から報告が急増しており、今後コラージュ療法において、非行独自の治療体系が構築される可能性があると期待される。初期の報告の代表的なものとして、筆者(17)、市井(18)、大友(19)などがある。

<引用・参考文献>
(1)C、コッホ、林勝造翻訳、バウム・テスト−樹木画による人格診断、日本文化科学社、一九七〇
(2)林勝造ら編、バウム・テストの臨床的研究、日本文化科学社、一九七三
(3)高橋雅春、描画テスト入門−HTPテスト、一九七四
(4)入江是清、非行少年の自画像と家族画、臨床描画研究機日本家族画研究会、金剛出版、一九八六
(5)奥村晋、家族画の「うしろ姿」、臨床描画研究機日本家族画研究会、金剛出版、一九八六
(6)奥村晋、非行臨床における家族画、臨床描画研究供日本家族画研究会、金剛出版、一九八七
(7)廣井亮一、描画療法としての間取り図の活用、臨床描画研究此日本家族画研究会、金剛出版、一九九一
(8)平川義親、シンナー吸引少年の特徴について−統合型HTPテストに示される棒人間を通して見た一考察、臨床描画研究此日本家族画研究会、金剛出版、一九九一
(9)大山晋、藤掛明ほか、非行少年の「雨の中の私」画の分析1〜5、日本犯罪心理学研究二九〜三三(特別号)、日本犯罪心理学会、一九九一〜一九九五
(10)藤掛明、中村尚義、小島賢一ほか、非行少年のコラージュ(一)〜(三)、犯罪心理学研究三二(特別号)、日本犯罪心理学会、一九九四
(11)鈴木義子、絵画療法、矯正処遇技法ガイドブック第一分冊、矯正協会、一九九一
(12)藤掛明、非行カウンセリング入門、金剛出版、二〇〇二
(13)藤掛明ほか、現代ひったくり事情、新曜社、二〇〇〇
(14)藤掛明、描画テスト描画療法入門、金剛出版、一九九九
(15)廣井亮一、間取図画、家族描画法ハンドブック、矯正協会、二〇〇二
(16)山崎一馬、「間」の調整機能として描画、家族描画法ハンドブック、矯正協会、二〇〇二
(17)藤掛明、非行少年の素顔に触れるとき〜描画臨床の現場から、月刊少年育成三九(六)、一九九六
(18)市井真知子、コラージュ技法の実際、刑政4月号、矯正協会、一九九九
(19)大友栄子、女性に怒りや敵意をいだく少年、ケースファイル非行の理由、専修大学出版、二〇〇〇



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「描画テスト描画療法入門」出版のいきさつ(3)
2006.12.13 Wednesday 23:14
「描画テスト描画療法入門」出版のいきさつ(3)


  描画の扱いにあたって、どれでもありだなあと思い始めたのが98年冬のことであった。私の中でテストも治療も介入も、同時に府に落ちていき、いわば統合し、ようやく描画の書籍を執筆する気持ちの態勢が整ったのであった。実に例の月刊誌連載が終わって9年後、T出版社の依頼から7年後くらいであった。

 私はまずT出版社の編集者に手紙をかいた。ようやく書けそうですと。しかし、すでにT出版社からは別の執筆者による描画療法の本が出ていた。出版計画の事情も当然変わっていた。いたしかたないことである。というより、私がずいぶんと編集者に迷惑を掛けたなあと思った。

 そしてすぐに年があけ、その1月。都内で家族療法の大きな研究会があり、その後の懇親会で、偶然金剛出版の田中春夫氏と会った。田中氏は、草創期の家族画研究会で、準備や何やらでお世話になり、一緒にその時代を体験した同窓生のような親しみを私は持っていた。「今年は何かパーッと良いことがないもんですかねえ」と私が世間話風に挨拶をしたところ、田中氏は何気なく「先生のご本を出せたら私としてはすごく良いことが起きたことになりますよ」と返答してくださった。私は、ちょうど宙に浮くことになった描画の書籍案を、田中氏が見透かしたように言及したと思わず思いたくなるほど絶妙のタイミングであった。また私の描画の歴史は、家族画研究会やそれを側面援助してきた金剛出版と共に歩んできたようなところがあるので、まさに運命(摂理)のようにも思われた。

 そこで幾度かの手紙や草稿のやりとりを重ね、その年の12月、無事「描画テスト描画療法入門」が世に出ることになった。すでに書きたい事柄はかなり明確にあったので、まずまず順調に書き下ろしたり、すでに発表している雑誌記事を微調整したりして、順調に書き上げることができた。

 特に書籍を意識して、内容というより形式を調整したところもある。
 まず私の昔からの思い入れで、書籍の最初の書き出しと、最終章の終わりの記述を同質、同文脈のものにしたい、というのがあった。実際にはこうしてみた。

 (1章1冒頭)
 「電気のスイッチを切り替えると、一瞬真っ暗になった。目が慣れるにつれて、淡い明かりがうきたつように見えてくる。寮の廊下の片側に一列に並んだ居室の窓からもれる明かりである。私は、廊下をゆっくりと歩きながら、非行少年と呼ばれる彼らの寝顔を、窓ごとにのぞきこんでいく。こうして、少年鑑別所の夜間勤務が始まる。」

 (5章19結び)
 「講義が終わると、主催者側の方との歓談を楽しんで、その会場である少年鑑別所の正門を出た。すでに日が暮れ、暗闇の中であった。ふと振り返ると、寮舎からは明かりが洩れ、かつての私がそうであったように、建物の中では夜間勤務をしている職員がいるに違いなかった。・・・・」

 次に描画療法を扱った5章を大幅に小さくした。もともとここでとり上げようとした論点や事例は、相当数あった。しかし、それらは、家族療法の影響を受けた介入型の描画療法の要素が大きく、多くの一般的読書には抵抗のあることが想像された。やや時期尚早の気がして、大幅に割愛した。いずれ続編的なものを書くときに、あらためてそのとき割愛した論点や事例を扱いたいと思う。

 最後に、付録である。「描画テスト・描画療法入門」というタイトルを金剛出版から与えられ、やや緊張してしまった。書籍の内容は描画の基本的論点を扱っているとはいえ、いわゆる教科書としての性質はあまりない。しかし、教科書を読む層の人にも読んでほしいとも思った。そこで、せめて教科書を期待して読んだ人が最低限満足できるようにと、急きょ「描画テストの方法と文献」という付録をつけることにした。この付録を、私は結果的に非常に気に入っている。同業の後輩に向かってとりとめなく主観と独断で語るかのような内容は思いのほか読者の方からも反響があって、偶然の産物とはいえ、新しい記述方法をプレゼントされた感じである。

 最後の最後に、この「描画テスト・描画療法入門」を上梓してから、私自身が変わったことを述べてみたい。それは描画をテーマに依頼された講義や講演の内容が劇的に変化したことである。

 それまでは、あれもこれもと、私の描画の体験や意見をどうしても数多く言っておきたいという気持ちで、機関銃のように話すことが多かった。しかし、本の内容が、当時の講義ネタでもあったので、いずれあの本を読んでもらえればいいのだから、という余裕ができるようになった。そのため、その会場に一番ふさわしい内容のものを、限定して、会場の反応を見ながら話すようになったので、会場全体にゆったりとした暖かさが生まれたのではないかと思う。いわば会場との言外の相互作用が活発になったのである。

 そうしたせいかもしれないが、以後だんだんと私の描画の講義は、いわゆる講義でなく、体験演習式のものに変化してきている。50人以下の受講生で3時間以上の時間をもらえれば、ほぼ間違いなく演習式にしている。いずれ「描画テスト描画療法入門」の続編をかたちにしたら、この演習式の描画入門も「超入門」あるいは「再入門」としておわかちしたいと思っている。                           (了)
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「描画テスト描画療法入門」出版のいきさつ(2)
2006.12.13 Wednesday 23:11
「描画テスト描画療法入門」出版のいきさつ(2)


 おそらく月刊誌12回連載分に、少し簡単な少年鑑別所などの解説文を書き加えたら、
手ごろなブックレットになっていたと思う。ほとんど労力のいらない作業である。それでも多少はユニークな要素も書き加えたいと思い、いろいろなアイデアも夢想していた。が、そうこうしているうちに、なんと依頼元のの出版企画会社が倒産してしまい、出版は白紙に戻ってしまった。

 一気呵成の勢いがなくなるととたんに課題が重くなっていった。実はその後、T出版社からも書籍化のお話をいただき、二つ返事で私からも出版をお願いした。今度は単行本であるため、連載分では原稿量がその半分にしかならなかった。もう半分を書き加えるにあたって、私の中では思わぬ躊躇が生まれた。それは、私個人の問題でもあるし、当時の「描画」をめぐる学会や研究の動向とも重なっていたものであった。

 すこし脱線するが、わが国の初期の臨床心理学というのは、多分に心理テストの研究や習得が大きなテーマとしてあったと思う。少年鑑別所の心理技官などは、そうした心理テストを業務の中で多くの実践を積むことができることから、多くの人材を排出した。ロールシャッハや描画の空井健三氏、高橋雅春氏、TATの安香宏氏、坪内順子氏、ソンディの佐竹隆三氏、バウムやPFスタディの林勝造氏、ロールシャッハの上芝功博氏など数多くの名前が浮かぶ。若き日の河合隼雄氏も、ロールシャッハの手ほどきを、当時、奈良少年鑑別所にいた高橋雅春氏から受けたほどであった。

 「こころ」という形のない領域を対象とし、医師のような資格も権威もない立場にあって、多くの臨床家の関心が心理テストに向かったことは容易に理解できる。また、研究を行うにあたって、心理テスト結果を介在させることで、量的なデータとして自然科学的な手法(統計)を使うことができ、非常に見栄えの良い研究論文を書くことができたことも魅力があったものと思う。またそうした周辺的なことがらだけではなく、実際に臨床の場での心理テストは、やはりクライエントを理解し、治療や指導の方向を考えるうえで、絶大な利点のある道具であることには違いなかった。

 かくいう私も、描画だけでなく、TATやソンディテストなど多くの心理テストに心酔し、また支えられてきた。だから実務で使い勝手のよいテストを大切にしていたし、勉強もした。やがて自分なりの解釈スタイルもできてきた。最初に連載記事を書いてみようと思ったゆえんである。しかし、私の中でも変化というか成長というのがあって、テストのかなり本質的なところで軸足の置き場所をどうするかの葛藤があった。

 まず、初学者時代、夜寝るときに、目を閉じるとテスト図版が浮かんでしまって寝付けないようなテスト勉強漬けのころがあった。

 ついで、教科書の枠におさまりきれない面白いエピソードを経験する中で「テスターとテスティーの相互作用」という視点にぶつかり、そうした角度から自分のテスト体験を再構成していくはめになったころがあった。実はこの「相互作用」を込みで再構成していく作業のまっただ中で、例の連載は始まったのであった。

 しかし、この「相互作用」に真剣に注目するようになると、地すべり現象のように、かなり大きな枠組みへと次々に連鎖し、変更を迫られていくことになった。それも何年もかけてゆっくりと。たとえば「相互作用」の中でテスト解釈上、新しい意味が見えてくることがある。ある絵画の特徴にこれこれの意味があると解釈していたのに、対話が進むことでまた違った意味が見えてくる。それどころから3つも4つもそれぞれ真実な意味が同時に見えてくることもある。「多義性」の問題である。こうなると、伝統的な(教科書的な)描画テスト解釈では、あまり扱ってこなかった世界にどうしても足を踏み込まざる得なくなってしまう。ゆっくりと、しかし本質的に、描画の扱い方が変化していくことはもう明らかであった。軸足の置き所が定まらないうちに、視点にまとまりのある描画の原稿を、それも書籍で書くことは不可能に思えた。

 これはそのまま、当時の描画をめぐる動向ともつながっていた。当時、描画の世界では、「家族画」を中心に描画ブームがすごい勢いで起きていた。大阪少年鑑別所と浜松医科大学が協力し合い、「日本家族画研究会」(現、日本描画テスト・描画療法学会)なる会が生まれ、そこに描画を愛する様々な人たちがいっせいに流れ込む格好になった。思うに、いわゆる描画テストの人たちは、その人口は多く、実務でも愛用しているものの、学会や研究レベルでは、統計論文で描画を扱う限界もあって、場がなく、ようやく自由に参加できる場を見つけたかたちであった。また当時家族療法という新しいグループが台頭してきて、その治療の過程で、絵画を非常に操作的で介入的に扱い、まるで手品のように見えるくらい、ダイナミックであった。彼らもそうした治療報告の場として入ってきたのである。
 家族療法での描画の扱い方の特徴を私の言葉でいえば「相互作用」ということであった。
 次の石川元氏の記述は、この辺の事情を端的に次のように宣言している。

 「異常な絵は単純で読みやすい。・・・しかし、正常な絵は複雑極まりなく読みにくい。正常な絵では、コミニケーションが一方通行ではなく、読まれる側が読む方に与えた情報が読む方から読まれる側にへ戻り、相互関係の中で読みが決まる。・・・読む、読まれるの関係が治療関係だから、この治療関係を媒介するものとして絵を使う。その際、正常な絵は読みがあいまいで、1対1に対応する読みがないということは、解釈したりされたりするうえできわめて都合のいいことである。むしろ絵の読みは治療者と被治療者の間で作り出され、それが治療となる。・・・描画テストに生物学的検査の正確さ、つまり診断的価値を期待する時代は終焉した今、描画の持つあいまいさを治療的コミニケーションに利用しない手はない。」(1986年、臨床描画研究1,11頁)

 ガリガリの描画テスターを目指していた私には、家族療法の絵の扱いは、最初異様に見える部分も多かったが、だんだんと彼らと交流するにつれ、それもまた描画の真実の一面と感じ始めた。異質な参加者がぶつかりあうことで、「日本家族画研究会」は非常にユニークな研究会として発展していった。最初のころの活気は特にすごかった。書籍3章9の冒頭のとおりである。

 その後私自身も家族療法の訓練を受けるようになり、介入的な描画の扱いについての論文まで書いてしまった。私の中で、テストか治療か介入かといった、択一的な葛藤が薄れ、テストも治療も介入も、といった具合にどれもありだなと思え、それぞれに描画の真実に違いないと思えるようになったとき、ようやく書籍を書き上げる準備が整ったのだと思う。


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「描画テスト描画療法入門」出版のいきさつ(1)
2006.12.13 Wednesday 23:07
「描画テスト描画療法入門」出版のいきさつ(1)


 29歳の秋のある土曜日。私は目先の面接と雑用でふらふらしながら仕事づけの日々を送っていた。その日も仕事として、犯罪心理学関係の学会の地区研究会があり、その会場設営にかり出されていた。机や椅子をセッティングしながら、もう一人の男性と一緒に汗を流した。愛想の良いもう一人の男性は、月刊少年育成誌(当時、少年補導誌)の編集者松宮満氏であった。翌月曜日、職場に電話がなった。松宮氏であった。
「あんな話、絵のほうで書いてみません?。連載で。」
 絵のほうで、というのは、私としては当時、TAT(物語分析)でも絵(描画テスト)でもどちらでも、書きたいエピソードがたくさんあって、松宮氏にも双方を話してあったからである。本当をいうと私は絵よりもTATのほうが自信があった。しかし、このときの松宮氏の直感的選択は、その後私を描画に方向付けることになった。

 「教科書的内容は期待していない」「実務家としての実感のある話が読みたい」といった編集者の注文に沿いながら、とにかく心揺さぶられた事例やエピソードを書き出し、時間順に並べ、いくつかのかたまりに分けた。そして事例やエピソードをひとつのテーマに2つ程度まで絞り込み、そのほかの事例やエピソードは切り捨てていった。原稿の分量も、最初自然体で書いた後、約半分の分量にするまで削る作業を続けた。そうやって1回分の記事を書き上げた。

 連載は松宮氏のネーミングで「非行少年の絵を読む」と題し,少年補導誌(現、月刊少年育成誌)の1988年5月号から1989年4月号まで掲載された。

 このときの連載記事が,書籍「描画テスト描画療法入門」の1章(1)から3章(10)に並べ方は違うがほぼそのままの文章で使っているものである。第11回は「合同描画」を扱い、最終回は全体の理論的なまとめとしたので、この2つは,書籍全体の流れに合わず、残念ながら除くことになった。

 連載中も何かと執筆指導をしてくれた松宮氏からは、連載終了時に次のような助言をもらった。今でも大事に書き留めてある。

※ 絵の「読み方」に触れる前で連載が終わった。「読み方」を読みたい。
※ 全体に好感を持った。手触りがよい。他の人がかいた描画事例記事と比べると,気持ちがいい,というか,本当らしいなと思った。
※ 大家がかくと,別世界(完成した教科書的世界)になったはず。一方的に教えを受けるというより,気になって読むという感じ。
※ 編集部が依頼したスペース(文字数)が小さすぎたかな。
※ 難解な部分がない。読者への気遣いを感じた。
※ 専門家が読むと了解できるのかもしれないが,飛躍する部分がある。流れをつけるために,もう少しデフォルメしてかまわないと思う
※ 絵に関係ない脱線部分,ふくらみ部分がもっとあって良かった。書籍でなく連載なので。(例)ひったくりか空き巣狙いか(書籍2章6)等。
※ 友人に樹木画をかかせると変な絵であったという話(書籍1章3)が印象深く,それを「読み方」では,どう扱うのかが知りたかった。他に印象深いのは他の技官と比較して絵の結果に差が出た記事(書籍2章5)。標準からのズレをみた記事(書籍3章10)もおもしろかった。
※ 文章の導入・結びで気になったところはなかった。あえてあげれば,第9話(書籍2章7)の新幹線の結びはやや不自然な感じがした(書籍に乗せる際に結び部分を削除した)。
※ 直接話法を段落から独立させる書き方をしてみたらどうだろうか。また今はできなくても仕方がないが,句点を多用した文章は,点を削るのではなく,語順を変えるようにする。

 ほかにも、そのころいろいろな人から心温まる感想をいただいた。
 ある精神科医からは次のような感想をお手紙でいただいた。
※ 文章が読ませる。おもしろい。しかも背後に体系がある。       
※ 第12回(書籍には収録せず)が圧巻。内容がある。
※ 参考文献を付けないと論文としての価値が半減。
 またある女性心理学者からは次のような感想をやはりお手紙でいただいた。
※ 第11回(書籍には収録せず)の内容がとくにいい。印刷して,教育心理学の討議のテキストに使う予定。 
※ 第4回,6回(書籍1章4、2章5)は現在の心理学が見失っている視点。いいところを掘り下げている。
※ プラクティカル・エッセイとも言うべき新しい記述。

 そんなおり、ある出版企画者の訪問を職場に受けた。そこで聞いたのは次のようなことであった。
※ 図書館でコピーをして,何度も読んだ。非行少年を見るヒューマニズムを感じた。 
※ 描画論には興味がないが,それ以外の少年や筆者の感じ方や生き方のようなものがおもしろい。貼絵の変わったはり方を発見(書籍1章2)したり,ひったくりと空き巣狙いを比較した記事(書籍2章6)など。
※ 少年鑑別所がどんなところなのかがわからない。もっと一般的な紹介部分を増やして欲しかった。これからは新聞の家庭欄の視点を持ってほしい。

 連載が終えたころには私は30歳になっていた。訪問してきた出版企画者は、30代、40代に限った若手執筆者で、こころの問題を扱ったブックレットを企画しているというのである。そして私の連載も、ブックレットの一つにしたいという申し出で、私は一気に自分が描画の本を出すという途方もない目標を与えられたのであった。

 しかし実際に金剛出版からこの本を出したのは、それから12年後であった。そのあたりの事情は、次回で。


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