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書評:「健全な信仰をどう育てるか」
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2011.05.02 Monday 23:17書評:「健全な信仰をどう育てるか」丸屋真也著(いのちのことば社)
*すでに出版社からネットに全文アップされています。
日本のプロテスタント教会では、この一〇〜二〇年、新しい動きがあると私は考えています。説教塾など実践神学の興隆、ナウエンやフーストンらの人気、牧会ジャーナル誌の定着、そして最近でも、ニュータイプ雑誌ミニストリーの創刊、対話を重んじる牧会塾の登場などがそうです。ほかに信仰の一二ステップの活動もそうですし、キリスト教カウンセリングセンターなどのカウンセリング講座の充実ぶりもこれに加えることができるでしょう。これらのどの活動にも、自分の弱さを知り、それを受け入れ、先入観や慣習を見直し、本来の信仰の歩みを取り戻そうとする視点が共通しているのではないかと思います。
本書の著者である丸屋真也先生も、臨床心理学の立場から、こうした動きを牽引しているお一人だと勝手ながら私は考えています。本書を一読して感じることは、我が国で、実際に信仰者の心理相談に預かっている先生ならではの実感が反映されていることです。そのために、多くの信仰者が直面するであろう具体的なトピックスが見事に取り上げられています。内容の順を追うと、第一章、第二章では、現状(健全でない信仰)の理解を扱い、第三章、第四章では、健全な信仰のあり方について扱っています。また、第五章では、健全な信仰の霊的習慣を身につけ、霊的ライフスタイルを確立するよう提唱し、最後の第六章では、信仰の成長の段階モデルを提示しています。
一般に心理臨床では、種々の問題を、目先の言動だけにとらわれず、その背後にある人生や生活全体の適応のあり方にまで広く重ねて受けとめ、対応していきます。丸屋先生は、クリスチャンは何か失敗したりすると悔い改めはするが、その問題や失敗から学んだことを次に活かせず、成長につなげないという指摘(5頁など)を何度か繰り返しています。この心理臨床家らしい視点こそが、本書の底流にある最大の問題意識であり、魅力であると感じながら読了しました。(「いのちのことば」誌2011年5月号)
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書評: 「闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神」
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2008.12.04 Thursday 00:31「闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神」 上沼昌雄著
(いのちのことば社、1,800円)
本書は、著者の深い瞑想であり、信仰告白である。著者は、深く自分の内にある沈黙の世界を見つめ続けながら、言葉で表せない世界、言葉の手前の世界を扱おうとしている。したがって、本書を読み心地が悪いと感じる読者もいるかもしれない。著者は、時に詩的に歌い、時に執拗に、まるで螺旋階段を巡るかのように、幾度も記述を重ねながら進んでいくからである。
そうした瞑想により、著者は何に行き当たるのか。それは自らの心の「闇」である。
「何かが契機で闇の存在に気づく。ないと思っていても、思いがけないことで自分が闇を抱えていることに気づく。一度気づくとその闇が思いのほかに深いものであることがわかる」(71頁)と述べるのである。そして信仰者だから闇がないと思うのは性急であると警告する。信仰のあるなしにかかわらず人は闇を抱えているのである。まずその闇を自覚し、認めることから始めないとならないのだ。
その上で、著者は、聖書のダビデの叫び(詩編一三九編)、パウロのうめき(ローマ七章、八章)を丹念に共感的に味わっていく。そして、闇を認め、みつめることで、以前のように振り回されず、闇と対面できるようになり、自分の人生というものが、そもそも闇があり、陰があることで成り立っているのだと納得する。そして神がやみを隠れ家としていること(詩編一八編一一節)に慰めをいただく。光である神が、やみでご自分を覆って隠れていてくださるので、人は自分の心の闇の世界にじっくりと下りていくことができると知るのである。
心の闇の世界に下りても、さらにその奥の闇が待っている。その終わりのない作業の中で、自分のうめきが、不思議と誰かに聴き届けられていることに気がつく。そしてそれは自分のうめきであると同時に御霊自らがうめいてくださることに気づくのである(ローマ八章二六節)。
さて、本書の最大の魅力は、冒頭でも述べたように、著者の深い瞑想で貫かれている点である。そのため、問題を声高に指摘するような感じがない。むしろ、読む人に、「ああ、自分の中にある闇を認めてもいいんだな」といった安心感や慰めを与えてくれるだろう。このような感化力は、なによりも本書らしいと言える。もう少し言えば、読者自身が、著者の姿勢に触れることで、自らの心をみつめ、自分の物語を紡ぎ出す作業に向かうように促されていくのである。
このように書くと、特別な覚悟をもって本書を読まなければならないような印象を与えてしまうかもしれない。著者が好んで取り上げる村上春樹の長編小説『ねじまき鳥クロニカル』では、主人公がスパゲティーをゆでているときに、謎の電話がかかってきて、物語が始まる。そのように、日常の慌ただしさの中であっても、本書を手にすることで、ちょうど電話を思わずとった小説の主人公のように、読者自身の新しい物語が始まるきっかけとなるかもしれないのである。
*「リバイバル・ジャパン」誌、(08年12月)掲載予定 -
書評:「新版 サンタクロースの謎」
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2008.10.13 Monday 23:20
書評:「新版 サンタクロースの謎」 賀来周一、キリスト新聞社
河合隼雄という臨床心理学者がいた。日本に心理カウンセリングを普及させた第一人者である。臨床心理学の専門家養成ばかりでなく、書籍や講演会、テレビ番組出演などを通じて、一般社会に向かっても啓発活動を精力的に行った。
彼は、現代科学の知には限界があり、人は「魂」の世界に目を向けなければならないことを主張した。そして、人は死について真剣に向かい合わないといけないことを、また人の思惑を越えた意思のあることを、実にみずみずしく説いて回った。多くの日本人が彼の本を読み、言葉を聞き、影響を受けたのではないだろうか。まるで牧師のようでもあるが、実は彼は信仰を持たず、どちらかといえば仏教に親和している方であった。
ひるがえって、キリスト教信仰を持ち、豊かな魂の世界を知りながら、河合隼雄氏のような発信活動を行う牧師は現れないのであろうか。もしパウロが現代に現れたのなら、街頭で説教することよりも、各種のメディアを使い、社会の関心事に即しながら、しかし、真理を曲げずに力ある言葉を日本人に語りかけるのではないだろうか。
そんな私の長らくの夢を実現されているのが賀来周一先生である。いま一番、きちんと魂の世界を一般社会にも発信している牧師、神学者にしてカウンセラーである。この「サンタクロースの謎」は、その到達点といってもよいであろう。本書は、絶版された旧版を復刊したものであるが、もともと旧版は講談社+α新書(2001年)として一般書店に並べられていたことも非常に示唆的である。
このような著者であり、このような本であることから、本書には異なった二つの魅力があるように思われる。一つは、書名のとおりにサンタクロースについての様々な知識を楽しく読むことができる。たとえば・・・かつては1月6日をイエスの誕生日としていた。教会はサンタクロースを排斥しようとした歴史がある。サンタクロース以外にもクリスマスプレゼントの贈り手たちがいた。サンタクロースが、雪国の服装で、赤い色をしているのには深い意味がある。などである。しかしこれらも、いわゆるウンチク話に終わっていない。様々な現象や歴史の推移の背後にある、人々の心と魂の世界を自然に描きこんでいる。
もう一つは、サンタクロースという話題を通して、信仰を持たず、聖書に関心のない人たちに、聖書のリアリティと、キリストの十字架の救いを実に巧みに示唆していることである。それもステレオタイプな伝道メッセージではなく、サンタクロースを通して「健全な意味でのスピリチャルな世界」を取り上げ、それを独創的に提示しているのである。
まず著者は、サンタクロースの話から始め、次いでクリスマスの本来的な意味へと読者を誘っていく。そして読者の一人一人のために、神からの特別な介入があることを印象づけるかのように次のように述べる。
「サンタクロースは、その闇を天上から明るく照らす聖者のようにはやって来ない。彼は一軒一軒の家に、その家にふさわしい訪れ方はどういうものなのか探りながらやって来る。サンタクロースの訪問を受けた家は、自分たちだけが闇の中にいるのではない、闇を共有する者がいるということを、サンタクロースの訪問によって知らされるのである。闇は、サンタクロースがやって来たからといって、すぐにはなくならない。闇の中にいる者は、その闇を共にする者がいてこそ、闇の中に希望を見いだす。サンタクロースは訪問先の闇を共有し、ほんものの答えを与える者としてやってくる。」(161頁)。
そして、サンタクロースの服装が赤いことに触れ、「聖書に即して言えば、キリストが、神と罪人である人間の間をとりなすために流された十字架の血を象徴している。サンタクロースの原モデルである聖ニコラスは、その意味ではキリストの代理であり、それがサンタクロースに引き継がれたことで、宗教臭さを感じさせることなく、人間の根源的な問題に触れることとなっているのである。」(176頁)などとやさしく語りかけてくれるのである。
たとえキリスト教に関心がない人でも、本書を読むことで、教会に行こうと思ったり、聖書を読んでみようと思ったりすることであろう。まずは、自らクリスマスやサンタクロースの象徴性を豊かに味わうために、そして次には、クリスマス・プレゼントなど、周囲の人への贈り物として、この本を手にとっていただきたい。「本のひろば」12月号(11月10日発行)
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書評:「すばらしい悲しみ」
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2007.12.03 Monday 22:33●「すばらしい悲しみ −グリーフが癒される10の段階−
グレンジャー・E・ウェストバーグ著
(掲載:リバイバル新聞書評欄、2007年12月)
私がカウンセラーの訓練を受け始めたころ、指導者に徹底して教えられたことのひとつに、人の悲嘆経験に敏感になれ、かつ繊細になれ、ということがあった。私たちは必ず多くの「別れ」を経験している。そしてそれ故の「悲しみ(悲嘆)」を経験しているのである。
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書評:「ワンダフルカウンセラー・イエス」
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2007.06.22 Friday 23:19●「ワンダフルカウンセラー・イエス」一麦出版、
(掲載:「いちばく」第13号、2006年3月)
*リバイバル新聞書評欄(2005年12月)に同書書評を掲載したが、これは多少書き加えた別物。
心身医学や交流分析の大御所である杉田峰康先生が、ついに書かれたクリスチャン向けのカウンセリング書である。一般心理学界において大きな功績を残されている方だけに、キリスト教界向けに、どのように、どのようなカウンセリングを論じるのか、興味津々で本書を手にした。そして圧倒された。本書では、先生が自らの専門分野について、そしてカウンセリング全般について、真っ向から信仰者として語っておられたからである。どこを読んでも、信仰者としてカウンセリングを受容した先生の告白と実感に満ちている。またそれがモザイク的でない。「神が怒りの対象である人間を、イエスの十字架によって赦した」ことを、カウンセリングによる葛藤の解放のモデルとして受けとめるという視点で貫かれているのである。まさに渾身の力作である。
私は思うのだが、クリスチャン・カウンセラーが説くカウンセリングというのは、その人生観・人間観ゆえに信仰告白の部分がどうしても入るし、日ごろ対象としている臨床領域の影響もある。だから、その理論は、カウンセラー一人ひとりが自ら深めていく独自なものにならざるえない。本書に示されているように、杉田先生には独自のカウンセリングが確かに存在しており、だからこそそうしたものに接すると、教えられるし、考えさせられる。逆に、既存の体系を紹介するだけの教科書や、ちょっと良い話のちりばめられた随筆のようなカウンセリング本は入門時には貴重であるが、それ以降はあまり役に立たないのである。
私事になるが、 -
書評:「健全な信仰とは何か」
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2006.12.24 Sunday 14:24●「健全な信仰とは何か」いのちのことば社
(掲載:クリスチャン新聞書評欄、2006年8月)
本書は、クリスチャン・カウンセラーとして精力的な活動をなさっている丸屋真也先生によるもので、福音理解と信仰生活の再検討を迫る書になっている。しかし本書は、読者の胸元に剛速球を投げ込んで、のけぞらすような迫り方はしていない。言葉を選び、たんたんと投げるものの、一球一球は味わい深くじんわりと迫ってくる趣である。
まず第1章では、霊的な大人を目ざすことの大切さを説き、そのために必要なものとして、霊的な自立にはじまり、心理的自立、相互依存的な関係からの自立、経済的自立を説明する。ついで第2章では、霊的生活にまつわる誤解を扱い、第3章では、特に教会生活でつまずく様々な局面を実際的に取り上げる。また第4章、第5章では、信仰者の人間関係、とりわけ後章では牧師の人間関係の問題と対処方法についてこれまた実際的な指摘が続く。第6章では、信仰者の聖化の姿を山上の説教から学び、最終章では、霊的な大人になった信仰者が社会にいかなる影響を与えられるかを述べている。
本書の魅力は、第一に、信仰者の霊的成長を全人的なものとし、霊的な面、心理的な面などの違いばかりでなく、相互に影響し合う関係にまでも踏み込んだ説明を加えていることである。牧会経験をもち、現在、教会向けの活動を中心に行っている丸山先生ならではの具体性と説得力がある。第二に、それに関連するが、クリスチャン・カウンセリング上、非常に重要なトピックスが次々と登場し、それが丸山先生の体験に基づいて語られていることである。「心理的不安と霊的状態の混同」などがそれである。第三に、問題点を指摘するにとどまらず、改善策を聖書に根ざしてきちんと提示していることである。第四に、コンパクトなことである。よくぞこれだけのことをこのボリュームでまとめられたと感心させられる。今後は、この書から、続編なり、詳細な各論なりの著作が登場することを心待ちにしている。
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書評:「ワンダフルカウンセラー・イエス」
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2006.12.17 Sunday 17:38●「ワンダフルカウンセラー・イエス」一麦出版、
(掲載:リバイバル新聞書評欄、2005年12月)
心身医学や交流分析の大御所である杉田峰康先生が、ついに書かれたクリスチャン向けのカウンセリングの本である。先生が自らの専門分野について、そしてカウンセリング全般について、真っ向から信仰者として語った渾身の力作である。
本書の構成は、第1部「聖書とカウンセリング」と第2部「心の戦いからの解放」に別れ、前者では、聖書の記事から、イエスのカウンセリング、イエスのカウンセラー教育、クリスチャン・カウンセラーの自己成長の問題を扱っている。また、後者では、交流分析、ゲシュタルト療法の立場から、その治療法を概説する。
読者への配慮も細やかで、優しい言葉で書かれていることも特色である。基本的な事柄について、たとえば「抵抗」、「転移」といったカウンセリングの基本概念も丁寧に解説がなされているし、一方で、「サタン」や「聖霊の働き」といった事柄についても、聖書に基づいた解説が聖書箇所と一緒にやはり丁寧に解説されている。
これまで杉田先生は、一般書から専門書まで、何十冊という名著を書かれている。評者も、学生時代にはじめて先生の本を読み、交流分析の一端をかじった思い出がある。だから、この本も、最初は、そうした既存の著作のバリエーションであるのではないかと思っていたが、実際に読んでみると、さにあらず。どこを読んでも、信仰者としてカウンセリングを受容した先生の告白と実感に満ちている。またそれがモザイク的でない。「神が怒りの対象である人間を、イエスの十字架によって赦した」ことを、カウンセリングによる葛藤の解放のモデルとして受けとめるという視点で貫かれている。圧巻である。
このように、本書は入門書や啓発書の域を優に超え、中堅以上のクリスチャン・カウンセラーが読むべき濃密な専門書となっている。ありきたりのキリスト教カウンセリングの書に飽き足らない方には特にお勧めしたい。
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書評:「牧師の診断」
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2006.12.08 Friday 23:03●「牧師の診断」すぐ書房、
(掲載:クリスチャン新聞書評欄、2006年2月)
評者は心理臨床家として心理相談にあずかることがある。その中で、牧師が世俗の心理相談を活用する際に、二つの極端なスタイルがあると感じる。ひとつは積極的に心理相談を活用し、紹介した時点で紹介先の専門家に任せきりになる場合。もうひとつは世俗の専門家やその背後にある体系や技法に不信を抱き、牧師が抱え込む場合である。どちらも人の援助の在り方を一軸で考える危うさがある。深刻な精神障害を有する人にも、医療だけでなく牧師の宗教的助言が必要であるし、信仰上の悩みに困惑する人にも、霊的指導だけでなく心理的な助言が役に立つことがあるからである。人の苦しみや痛みは多元的であり、人の援助を多軸で考えることが必要なのである。
さて、本書「牧師による診断」は、牧師ではなく牧師と協働する米国の心理カウンセラーが、臨床心理学の知識と、自らの神学的直観を土台に書いたものである。その内容は、牧師は牧師として、カウンセラーはカウンセラーとして自分の専門性を自覚しながら協働すべきことを説いている。書名の牧師による診断というのも、牧師が牧会の中で信徒や求道者の相談にあずかるとき、精神医学や心理学の概念を借用するのでなく、神学の専門援助者として独自の見立てを行う必要性を強調したものである。それは素朴ではあっても良いが、必要なものであり、十分な見立てがないと、信徒の個人差にあわせた霊的育成の計画がもてなくなるというのである。そして著者なりに牧師が相談に訪れる人を診断するためのものとして、「聖なるものの自覚」、「摂理」、「悔い改め」、「交わり」、「召命観」など7つの指標を提示している。
ところで、日本のキリスト教界にもカウンセリングを活用しようとする機運がある。一方で、信仰を持った若い臨床心理士が日本のそこここに誕生し始めている。本書の主張がようやく現実的な意味で参考になる時代が日本にも訪れようとしているのである。
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