講演録「牧師のストレスとセクハラ問題」(7)
2008.04.20 Sunday 19:19
■ばら色問題
背伸び・強行突破型の問題をもう少し続けます。私が「ばら色問題」と名づけているものがあるのですが、どういうことかというと、彼らにこれからのことを聞くと、ばら色のことを言い過ぎちゃうんですね。想像を絶するようなばら色のことを言います。
いす
さきほどギャンブル依存の人が、「もう一回やって当てさせてください」というのは、やはり常識からは外れたばら色ですよね。極端すぎるんです。非行のカウンセリングの例を言いますと、再出発にあたって、ばら色のことを言い過ぎる人は、非行から卒業できないですね。非行から卒業間近の人はすごく地味なことを言いますね。これは経験則ですが、かなり言える傾向だと思います。
たとえば父親に対する深刻な葛藤・対立のある非行少年がいたとします。施設を出て、親元に戻るに際して、「これからは男同士の友情をはぐくみ、時には自分から居酒屋に誘い・・・」などという人は、このあとあまりうまくいかないですね。むしろ「これまで十数年間やってきて駄目だったので、何かを変える自信はないけれども、少なくとも頭ごなしに叱られたとしても感情的になって家を飛び出すようなことはやめようと思っています」、こんな地味なことを言う人は、そこそこ良いスタートを切りますね。たとえ親が変なことを子どもにしてきても安定した再出発をはかることができます。それくらいに、再出発にあたって、ばら色か地味か、というのが大切なサインになります。
このバラ色の未来というのは、こちらが聞いていて恥ずかしくなるような景気の良い話です。また、あまり実体がなく現実的な検討のなされていない話です。
こうしたことは、非行だけではなく、一般の人が、いろいろな大変な問題を前にしたときに、それを乗り越えよう、先に進もうとしたとき、現実味のないままにひたすらばら色にふくれあがる人がいます。同じですね。

■ばら色問題の悪循環
なぜ、ばら色では失敗するのでしょうか。本当に、現実をきちんと見た上で、悲観的な状況を十分に認識したうえで、それでもふりしぼってポジティブに高い目標を上げるという意味であれば、これはOKです。そうではなくて、足元を見ずに、ひたすら目標を高くするだけの幻想的なばら色というのはアウトです。同じ積極的な生き方とはいえ、この二つは似て非なるものです。
悪い意味でバラ色に終始する場合、そこには、悪循環が働いています。私たちは、スーパーマンではありませんから、努力し、頑張って、背伸びしながら生きていっても、必ず壁にぶつかります。そうすると、小さな失敗をしたり、心身のコンディションが悪くなったり、いろいろな息切れが生じてきます。それは、背伸びの生き方が限界に来て、息切れ状態になっているわけですね。余裕のある人なら、自分が息切れ状態に陥ると、立ち止まります。そして目標を下げたり、目標を変えたり、あるいは、人に援助を求めたり、あるいは、休んだり、そういったことをします。ですから、そこで、ある程度息切れ状態が解消します。少なくとも仕切りなおしができますね。ところが、背伸びの硬直した生き方をしている人には何が起こるかというと、息切れが起きて、失敗しても、自分が息切れしていることがわからないんですね。何を思うかというと、たまたまだとか、あの人がああやったから今回は失敗したとか、あるいは運が悪かったとか、いずれにしても自分のやり方、あり方を変えようとは思いません。むしろ、いいんだと。自分の背伸びの生き方をますますパワーアップすれば、いくらでも打開できる、いや、そうしないと打開できないんだということで、息切れをしているのに、背伸びの生き方を更に強化します。ますます背伸びを強めます。そうすると何が起こるかというと、息切れもますます深まります。そして息切れがますます深まったところで、さらにそのことで、ますます背伸びを強める。ということで、背伸び、息切れの悪循環が雪だるまのようにふくらみますね。こういうときに、彼らは何を考えているかというと、やるっきゃない、あそこまでたどりつけば何とかなる、というふうにどこまでも、背伸び・強行突破でいきます。そして現状が悪化していくにつれ、本当は息切れしている自分を更に舞い上がらせるために、抱いている目標がどんどん高くなっていきます。そして幻想化していきます。これがばら色の未来、ばら色の再出発を口にする人たちの抱えている悪循環です。
ギャンブルの借金苦のなかで、次に大きく当てればむしろ景気の良い未来が手に入る、などというのも幻想の物語です。先の終戦間際に日本が、敵の襲来に備え、婦人たちが竹やり訓練したというのも、悪循環のなせる技だと思います。幻想の物語です。現実を受け止めていないからです。
そしてこの悪循環の中にいると、周囲からの助言や批判にも耳を貸せなくなります。目標や使命を自分に言い聞かせながら、自分の心にも、身近な人たちの思いにも非常に鈍感になっています。善意の助言ですら、自分の価値ある目標や使命を遂行することを邪魔するものとしか思えなくなっています。そして常識的な検討能力が非常に落ちてしまいます。ばら色の悪循環というのは、大変危険な状態なんです。
(つづく)
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2020.09.15 Tuesday 19:19
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Comment
2008/04/25 12:10 PM posted by: ふじかけ
細木さん

コメントありがとうございます。
おしゃっるとおりだと思います。


また、同じようなことを別の言い方をすると。

祝福も、受ける側が、大きな祝福か、そうでないかと考えるようになると、おかしくなってしまうのだと思います。つまり大きな祝福を受け続けていると感じられないとむなしくなってしまうからです。

とても大きな祝福がないような厳しい状況のなかで、小さな祝福や希望を見つけ、感受していけるかどうか、感謝していけるかどうかが大切なのだと思います。

2008/04/25 7:28 AM posted by: 細木
ありがとうございます。

自分の非や弱さを認めることが、むしろ無難で幸福につながるということは、常々考えてまいりました。

一部の牧師は、自分が「祝福の神学」を説いておきながら、自分に経済的な祝福が実現しないという現実をどうにかしようとして、歪んだ生き方になってしまうのかなとも思いました。
2008/04/24 11:48 PM posted by: ふじかけ
細木さん

ばら色問題。
使命感の膨張。
バランスの欠いた、強行突破の生き方というのは、
現状の自分の弱さや非を認められるかどうか、だと思います。
経済的なルーズさも、危険な場合が多いように思いますが。
2008/04/23 10:36 AM posted by: 細木
このバラ色問題を読んで、あるカルト化した教会の指導者のことを思い出しました。とあるブログで知ったのですが、信徒にかなりの額の借金をしたか、教会の会計を無断で使ったかしたのですが、返済しないで外国に行ってしまったそうです。それで、仲裁に入っている方が連絡を取ったところ、「いついつまでにまとまったお金が入るから待ってください。」というのだそうです。どのような目途が立っているのかというと、「そういう示しがあった」ということだそうです。関連はあるでしょうか?
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