雑誌論文「悪への憧れと危うさ〜非行カウンセリング」
2006.12.14 Thursday 13:09
特集:11歳から15歳の心的世界・「悪への憧れと危うさ〜非行カウンセリング」

1.はじめに
非行に走る少年たちを私たちは「悪へ憧れる」「悪に魅せられる」と評することがある。また非行とは無縁であっても、一般の少年たちにも似たような傾向を感じることがある。

 もちろん本人たちがそう考えているわけではない。その場合、本人たちは「強い自分」へのこだわりがあって、そのことを真面目な領域(学業、運動等)でなく、悪の領域で達成しようと、懸命に動き回っているのである。それも非行は、思春期に始まり、20歳頃までにはおさまっていく。20歳の彼らにはもはや「悪に憧れる」素振りはないのである。

 さて、ここで四つの問いがある。右斜め下
一つは、なぜ彼らが「強い自分」にこだわるのかということである。彼らの「強い自分」に対するこだわりというのは、人が向上を図り、自己実現を目指し、成功や達成にこだわるような生き方と違うのであろうか。

 二つには、なぜ彼らは、「悪」の領域で動き回るのか。本人たちは、「悪」の領域にどのような魅力を感じるのであろうか。

 三つには、なぜ周囲からの制裁を受けながらも、同じような非行を再発・反復していくのか。多くの場合、損得でいえばあきらかに損を承知で邁進していく。まさに「魅せられている」感じである。「懲りない」といったニュアンスもある。さらには常識で説得してなんとかしようとする一部の大人たちからは「病んでいる」とまで言われてしまうこともある。

 四つには、なぜ非行は思春期に始まり、20歳頃までにおさまるのか。ほとんどの非行少年は、少年時代は問題を起こし続けたとしても、大人になって犯罪者になることはあまりないのである。

 本稿ではこうした問いについて考察を加えながら、非行カウンセリングの立場から、非行化傾向のある思春期の少年たちの理解を試みた。

2.「強い自分」へのこだわり
(1)二つの反応
 心理臨床では、内向型の葛藤や悩みを抱いている人を対象とする場合が圧倒的に多い。しかし、非行や問題行動化型の人を対象とする場合には、基本は共通するものの、その体系は異なっている点が多い。ここではそうした面を強調し、確認するために、まずはじめに類型的な視座を提起したい。

 それは人が大きな障害に遭遇したときに「へたり込み」の反応を見せる場合と、「背伸び」の反応を見せる場合の二つがあると考える類型である。この二つの反応型を理解して思春期の子どもたちを理解しないと混乱が起きる。「へたり込み」型は、困難な事態に遭遇するとそれに圧倒されてしまい、動けなくなる。周囲に甘え、援助を求め、状況を変えようとする気概がなかなかわいてこない。一方、「背伸び」型は、困難な度合いが大きければ大きいほど向きになり、こんなことで挫折するほど自分は弱くないのだと強がる。強行突破しようとして、動きすぎてしまう。そして周囲の忠告や指導には耳を傾けない。

 このように両型は非常に対照的であるのだが、通常の場合は、同一人物にあって、どちらの反応もケースバイケースで使いわけているし、そのような柔軟性が発揮されることが適応的な姿であるといえる。ところが、人は余裕のない状況に追い込まれていくと、どちらかの反応ばかりを多く選択するようになる。いつもへたり込んでばかりいたり、いつも強行突破しようとしたりするのである。一度大きくどちらかの反応に振れると、加速度的にその方向に偏りやすく、ついには絶えず一方の反応だけを選んでしまうことにもなりかねない。極端な例を探すと、「へたり込み」型が高じた姿として、引きこもりや精神的な病といったものがあると考えられるし、「背伸び」型が高じると、非行や問題行動、嗜癖といったものがあると考えられる。

 従来からの援助技術や方法は、多くの場合、「へたり込み」型を対象とする臨床で開発され、体系化されてきたものが多いように思われる。援助にあたって、よく相手を受容し、見守り、励ましながら、その人に自律の芽生えが生まれるのを待つことがある。それは「へたり込み」型の人には適切であるが、逆に「背伸び型」の人に対しては不適切であるばかりでなく、破壊的になることがある。

 たとえば、中学生の娘が家出し、不良成人と同棲生活を始めたとする。そこで、同棲生活を親が口出しせずに側で見守り、仕送りなどをし、本人の自覚を待ち続けたとしたらそれは破壊的である。そのような場合には、両親で同棲場所に乗り込み、強制的に娘を引き戻すべきであるし、必要によっては警察に通報すべきである。「背伸び」型の問題を起こしている人に対しては、妥協できない枠組みを厳に示し、対決することがどうしても必要になるのである。

(2)絶望感と「強い自分」へのこだわり
 それではなぜ非行少年たちは硬直に背伸びばかりを選択し続けるのか。
 彼らに共通するのは、自分の弱さをまったく認めることのできない姿である。非行に走る少年たちとの面接では、当初彼らの抵抗が強く、反抗的な態度に直面することが多いが、それ自体も面接者と自分のパワーの競い合いになっている。またいったん面接や指導の土俵に乗っても、彼らは強気な発言をすることが多い。「なぜばなる」といった感覚で、景気の良いことばかりを口にし、時には不自然なほど「背伸び」をしてみせる。

 また冷静になって自分の逸脱的な行動について振り返るようになると、後悔はするのであるが悩むことはあまりない。ここでいう後悔とは、あの時は不運が重なったとか、あいつが悪いといった他罰的な思いであり、だからこんなことをしてしまったと嘆くのである。しかし、自分の本質的なあり方や資質について振り返り、悩むことはないのである。

 これほど自分の弱さを認めようとしない生き方を徹底しているので、彼らの言い分を客観的に判断すると、常識外れの自己本位な主張となり、彼らの「わがまま」「幼稚さ」「規範意識の欠落」などいろいろな思いが面接者の内に沸き立つことになる。

 しかし、彼らの内側を少しでものぞけば、必死になって自分の絶望感と戦っている姿が見え隠れしている。そして彼らにとってそうした絶望的な状況にある自分を認めてしまうことはあまりに怖ろしいことであるし、それを打ち消すためにとにかく動き続けなければならないのである。

 そもそも学業であろうと運動であろうと、その他もろもろの、社会や学校で承認を得られるものを自分自身が持ってないということを彼らは実はよく知っている。学校や家庭生活の中で、いろいろな機会に、自分の限界や無力さを味合わせられている。しかし、それをいったん認めてしまえば、絶望が待っている。自分のプライドも、自分の人生イメージも、親の期待に応えることも、全部が壊れてしまう。だから「もしかしたら自分にはそんな力はないかもしれない」という思いがふつふつと沸き立ちそうになると、「そんなことはあるはずがないのだ」と自分に言い聞かせて、そうした思いに強力な蓋をしているのである。自分の足りなさを具体的に自覚して葛藤することに比べると、こちらのほうが数段しんどい作業である。まったく問題がないと自分で自分に思い込ませるわけであるから、余裕がなく、強行突破するか玉砕するか二つに一つという世界になってしまう。そして、時に蓋がずれてしまうと絶望感に襲われる。絶望すれば当然のことながら合理的な判断や見通しがもてなくなる。

 もちろん、こうした極端な背伸びの生き方の起源には、家族のあり方が大きく影響している。弱音を吐いても助けてもらえない感覚は、幼い頃に家族関係の中で学習されていることが多く、親自身も、背伸び型の生き方を実践しており、子どもに対して一方的な期待を押しつけている場合が多いのである。非行初期の比較的年齢の低い少年たちであれば、その絶望感は「親の期待に応えられない」感情であり、その横柄な言動は、そうした自分のふがいなさにいらだつ姿として要約できるように思う。

3.「悪」の領域の意味
次なる問いは、なぜ悪の領域で彼らは承認を得ようとするのかである。これは端的にいえば、真面目な善の領域で承認を得ることができずに、代替として悪の領域で敗者復活戦に挑んでいるということができる。

 しかし、実際には単なる代替以上の魅力が「悪」の領域にはある。それは悪の世界に身を置くことで、大人ぶることができ、そこでは、同世代の真面目な若者たちが絶対にまねをすることができない優越感を感じることができるからである。また幻想的ではあっても、堅実な形で承認を得るよりも、より直裁にそれを味わうことができる。つまり他人に怖がられたり、煙たがられたりするような経験でさえ、特別な強い自分を味わえる機会になるのである。

 またもう一つの側面もある。それは不良集団の存在である。繰り返しになるが、非行少年は、自分の弱さを認められず、自分一人を頼りとする生き方にこだわっているため、周囲に対しては「ほっておいてくれ」という態度に出るが、内心は助けてほしいという深い思いもある。だから周囲が関わろうとすると拒絶し、ほっておくと自分は見捨てられたと心を閉ざす。これは親や指導者でもそうであるし、同世代の真面目な生徒関係でもそうである。どう転んでも関係を結べないのである。

 そこで大きな役割を果たすのが不良交友である。彼らは同じスネに傷持つ身として、互いに無力感を刺激し合わないような関係を自然に結ぶことができるし、徒党を組むことでその「強さ」をより大きいものとして味わうことができるのである。

 本稿では個人面接を想定し、あくまで非行に走る個人の心理を中心に論じているが、この所属不良集団の影響は大きく、学外集団、不良成人集団と、逸脱性の進んだ不良交友に所属するようになっていくと、個人カウンセリングの果たせる役割は急速に低下していくのも事実である。

4.「魅せられた」現象の背景
(1)非行から卒業する姿
 十分に心の中に納めきれていない無力感、劣等感というのは、誰にも大なり小なりある。そしてある場合にはそれをバネにして努力を重ねていくことができる。だから無力感、劣等感を抱えること、イコール悪いことではないし、イコール問題行動につながるものでもない。問題なのは、劣等感や無力感を人にまったく見せようとせず、自覚すらないままに、やみくもに背伸びをしていくことであり、その延長に、様々な問題行動が起こっているのである。

 私は成熟した生き方というのは、まず自分の無力感、劣等感を認め、またそれを処理しようとしてあくせくしている自分の中の「背伸び」の部分を認めて受け入れることから始まると思っている。大きな失敗や挫折の後、本当に生き方を変えて、再出発していく非行少年たちというのは、まず自分の劣等感や無力感を多少とも認める。良い意味で開き直って「こんなにも駄目な自分だけれども、これでやっていくしかない。駄目な自分なりに頑張ればよい。」と言うことができるようになる。その後の危機にも、無理な背伸びをして強行突破していくような動きが弱まるので、行動が非常に安定していく。

(2)非行を反復していく姿
 逆に自分の無力感、劣等感を認められない少年の場合は、状況が悪化すればするほど、起死回生のホームランをねらって、非常に高い目標を掲げ、動き回ることになる。さらに悪化すれば、現実味のない打開策にしがみつき、ついには百点満点の結果かさもなくばゼロかの極端な玉砕型になり、幻想的、部分的な「成功」や「達成」に視野狭窄的に自分の目を向け、とりあえずの充実感を味わっていくのである。

 非行少年たちの不良交遊や粗暴な振舞い、暴走族などの野蛮な遊びなど、どれもこれも、背伸びの末、最後に惨めで無力な自分を認めまいとして、必死に自己拡大感を味わおうとしている姿なのである。無力感、劣等感を払拭するには、直接人を支配したり、人を威圧するような行動をとることが、当人には「強い自分」を味わえる格好の体験になる。恐喝や傷害、暴力行為、強盗、殺人など、ぶっそうな非行はみなこうした仕組みを持っているのである。

だから、なんとか現状を打開しようとする本人の意欲が仇となって、失敗すればするほどより「強い自分」を求めて邁進していくことになる。しかし「強い自分」をそうは見つけられず、邁進する先にあるものは、端からみればより幻想的で逸脱的な「強い自分」でしかなく、結局は次なる逸脱を招いてしまうのである。ここには強烈な悪循環が働いており、「悪に魅せられた」と評される所以でもある。

5.思春期という時期
(1)非行の始まる時期
最後に思春期に生じ、20歳前にはおさまるという時期的な問題にも触れておきたい。

非行やそれに準じた問題行動が思春期に始まるのは、多くの人が納得しているところである。思春期は、子どもたちが、周囲とは違う独自な自分を意識し始める時期であると同時に、周囲もまた成績や優劣をより明確にし、個人差を評価するようになる時期である。同年齢の他者との比較において、自分の弱さや限界を知らされ、そのため、無力感や劣等感を抱きやすくなることが大きく影響している。また、第二次性徴も始まり、男として、女としての無力感、劣等感も加わるようになる。

 ちなみに、近年は、身体の発育も早まり、インターネットなどの普及により児童期から多くの情報に接するようになり、思春期と同じ状況が児童期後期から生じていると考えることもできる。学業を例にとれば、中学校受験希望者が増え、すでに小学校高学年から受験指導の塾に入り、かつての中学生の高校受験時の位置に小学生が置かれ、親の期待とそれに応えようとする子どもの努力、周囲との比較と優劣の感情といった心的状況が数年引き下げられた観がある。

(2)非行のおさまる時期
 ついで、非行のおさまる時期についてであるが、これは20歳になる前にやってくるのが一般的である。何度も少年鑑別所や少年院に出入りしても、だからといって必ずしも刑務所に受刑する犯罪者になるわけではないのである。ベテランの非行実務家が「時間かせぎをする」といったことを非行指導の勘所のひとつとして説明することがあるが、こうした事情を背景にしているである。

 非行がおさまる時期があるというのは、個人心理としてどのようなことが起きているのであろうか。それは本人の成長以上に、加齢とともに周囲との関係のあり方に変化が生じて、良い意味で開き直れるようになるからだと考えられる。この辺の事情を非常に端的に、澤田豊(1994)が指摘している。

 「同年齢の者が高校を卒業する頃になると、非行少年のかなりの者は仕事に落ち着くようになる。同年齢の多くの者が学校を離れ、大人並みの生活をするようになると、社会で生きる条件として、学歴がそれほど強い影響力を持つわけではないことに気づき始める。
”悪い自分”であっても、経済的にはそれほど遜色のない生活が送れるという実感が得られ、無理に大人であることを強調する必要はなくなる。さらに、学校に縛り付けられてきた同年齢の者が大人ぶった遊びをするようになるとそれまでやっていた不良行為の魅力は後退し、仕事をしている限り、高卒者と同じような生活ができると実感する。」

このように10代の終わり頃になると、確かに学歴によって生じる無力感は弱まり、良い意味で開き直りやすくなる。そして自分の現在の境遇を受け入れやすくなるのである。

6.おわりに
 非行少年の心理を理解するための視座といくつかの論点を概観した。それは要約すれば、非行は無力感を払拭するために行われるものであり、非行から卒業していくためには、理屈でなく体感として、自分の無力感を少しでも認め、良い意味で開き直る必要があるということである。この見立てをスタートとすれば、実際のカウンセリングでは、いくつもの原則が導き出される。たとえば彼らが援助を受けること自体に抵抗が働くために、権威構造を作り、面接を受ける心理的強制力を確保するよう心がけるとか、失敗の経験を肯定してあげると同時に、大枠から逸脱しそうな際には厳しく対決するなどである。

 しかし、最も重要なことは、面接者が彼らの粗野な言動に振り回されることなく、その内にある彼らの無力感を感受することができれば、それを言葉にしなくても関係性が微妙に変化していくということである。そして、そのときの面接者は、彼らの「横柄さ」でなく「けなげさ」が印象づいているのである。

●参考文献
澤田豊(1994)「悩まない非行少年」月刊少年育成第463号、1994年10月号、大阪少年補導協会
生島浩(1993)「非行少年への対応と援助・非行臨床実践ガイド」金剛出版
生島浩、村松励編(1998)「非行臨床の実践」金剛出版
藤掛明(1994)「非行少年と家族へのカウンセリング」月刊少年育成第463号、1994年10月号、大阪少年補導協会
藤掛明(2002)「非行カウンセリング入門・背伸びと行動化の心理臨床」金剛出版
藤掛明(2002)「中学生の非行少年と中学生だった非行少年」月刊少年育成第552号、2002年3月号、大阪少年補導協会
| ふじかけ | 非行カウンセリング | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
スポンサーサイト
2020.09.15 Tuesday 13:09
| スポンサードリンク | - | - | - | pookmark |
Comment
name:
email:
url:
comments:
Trackback
トラックバック機能は終了しました。
Search
Profile
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
雨降りの心理学 雨が心を動かすとき
雨降りの心理学 雨が心を動かすとき (JUGEMレビュー »)
藤掛 明
雨の心理的イメージを鍵に、雨の降る物語を読み解く。カウンセリング論であり、人生論でもある。
Category
Archive
Latest Entry
Recent Comment
Recent Trackback
Links
Admin
Calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>
記事分析
アート情報
Sponsored links
Mobile
qrcode
無料ブログ作成サービス JUGEM