記事:「現代人が偶像を求める心理」
2006.12.18 Monday 19:12
信徒の友:特集・偶像礼拝:「現代人が偶像を求める心理」

 私の出席する教会は、3階に礼拝堂がある。1階の玄関から入り、そこまで、ゆるやで長めの階段を上がっていくのであるが、その階段の脇にはステンドグラスが種々飾られている。聖書のいろいろな場面をかいま見ながら、ゆっくりと進む趣である。絵には力がある。絵が、文字情報によらず直接的感覚的に、神への思いを呼び起こしてくれる。霊的また心理的にうまく演出されていると思う。

 しかし考えてみると、絵を見て神への思いを呼び起こされるのと、絵を見て迷信的崇拝的にそれを聖なるものととらえて拝んでしまう危険性というのは、案外似ているところがあるようにも思えるし、本質的にかなり異なっているとも思える。どこに線を引くことができるのであろうか。
右斜め下
また、私の尊敬する信仰の先輩に、誰もいない礼拝堂で講壇に向かって、一人ひざまずいて、時にひれ伏して祈る方がいる。もちろん神は、講壇のあたりや方角におられるわけではない。まして礼拝堂限定に存在する方ではない。しかし、礼拝堂の講壇に向かって祈るその方には、神への思いをより集中させる方法として価値があるのである。しかしこれとて、他の人にとっては、その方法が、どこか偶像的なとらわれになってしまうことがあるのではないだろうか。どこに偶像的なとらわれと健全な神礼拝との線を引くことができるのであろうか。

 かつてモーセが作った青銅の蛇もそれを仰ぎ見れば命を得たわけであるが(民数記二一:六−九)、偶像礼拝ではなかった。しかし、後年、この同じ青銅の蛇は偶像礼拝の対象になっていったのである(列王記彊貳:四)。どこで人々は一線を踏み外したのであろうか。

■ 心のとらわれということ
偶像礼拝というと神の像を直接拝むことを想像するが、そればかりでなく、神以外のものに心のよりどころを求め、絶えずそれにとらわれている状態も、偶像礼拝といえるのではないだろうか。まさに、それは偽の神々の「奴隷」の状態だからである(ガラテヤ四:八)。

 私は、臨床心理士として、心理相談室で、多くのクライエントにお会いする。そこでは、こうした「心のとらわれ」の病理に支配され、その身を滅ぼしていく方々にお会いすることがある。未信者であっても、信仰者であても、彼らにとって、それは何ものにも代え難く、すべてにわたり優先されるべきものになっていく。たとい家族を悲しませ、自分の社会的地位を失い、時に自分の宗教的信条に反しても、ついには命を滅ぼしても、そのとらわれた事柄に、はまっていくのである。

 さらに、そうした「とらわれ」の偶像は、本来適度であれば問題とならないようなものだから話は複雑になる。アルコールやギャンブルへの依存(嗜癖)を続ける人などはその代表格である。適度にアルコールをたしなみ、些細なギャンブルをたのしむことは、法的に問題がないばかりか、周囲を苦しめるようなこともまずないといってよい。しかし、こうしたものへのとらわれが過度になっていくと、アルコールに浸って日常生活に支障が生じ、ギャンブルにはまって借金がふくれあがっていくようになる。こうなると歯止めがきかなくなる。

 私たちが担っている活動やかかわり、また私たちに与えられている物質を、本来のほど良い手段として扱うことができれば良いが、そうではなく、そのこと自体にこだわり、目的としてしまうようになると、とたんに不具合が生じ、その果てに偶像追求の位置にまで堕落してしまう。そういう意味では、ありとあらゆるものが偶像となり得る。それは教会や信仰生活の、本来尊い活動であっても、それを目的化してしまうと偶像となり得るのである。薬物。ニコチン。食事。買い物。ゲーム。メール。携帯電話。仕事。出世。金銭。恋愛。性。どれもこれもなり得るのである。おそらくこうした偶像というのは最初から偶像として現れるのではなく、本来は良き役割を担っていた事柄が変質していくのではないだろうか。冒頭の美術も、祈りの方法も、良き役割を担っているものの、仮にどこかで変質し、目的化していくようになったときには問題となるのであろう。

■ 心理面での特徴
 さて、この「心のとわられ」状態というのは、)椰佑砲麓覚がなく、かなりひどい状態になっていても、本人は「適度である」「いつでも止められる」「たまたまである」などと考えている。△靴し、すでに自分ではコントロールが効かない状態にある。また人間関係を破壊してしまう。といったような特徴が見られるように思う。ちょうど放蕩息子(ルカ一五:一一〜二四)が、放蕩にとらわれ、 峅罎吠屬襦廚泙埜充造鮓ることができず、突き動かされるように性急に行動し、J蕩のためなら、父親を金づるの道具のように扱ったことを想起させてくれる。ここには、神を追い出し、他のものによって心を埋め尽くすような極端な心理が働いており、偶像追求の姿がみてとれるのである。

また、そうしたとらわれ状態を悪化させていく人の心の奥には、未処理の孤独感、無力感があって、それを自覚していないことが多いと思う。だから、何かにはまり、とらわれ続けることで、寂しくない自分、弱くない自分を味わおうとしているのである。それは一時的あるいは幻想的な解決なのであるが、本人からすると、しがみつく格好の対象となり、神礼拝に代わるほどの偶像になるのである。

■ 目的なき時代に生きる
手段が目的化する。ここには、現代社会が背負っている病理の面がある。なぜなら、現代は、目的なき時代だからである。自由を謳歌しているが、それゆえ自分で人生の目的、生きる目的を探さなくてはならない。神に造られ、神に生かされ、使命を与えられるべき人間にとって、神抜きに、自分の向かうべき目的を意識することは至難の業となる。いわば手段が、あっというまに目的にすり替わってしまうのである。先に述べたように、そう
することで、孤独感や無力感から一時的、幻想的に開放されるからである。

 しかし、本当は、そうした孤独感、無力感こそ、福音による解決を約束されているのであるが、実際には信仰を持ちながら、心のとらわれという偶像を持つのはなぜであろうか。それは自分の寂しさ、弱さをどのくらいきちんと見つめようとするのかの姿勢にかかっているように思う。かの放蕩息子は、底を付くほどに落ちていったなかで、我に返ってようやく自身の惨めさを認めることができた。パウロも自分でコントロールできない弱さを認めたとき、自分の弱さを誇ると告白することができたのである(競灰螢鵐醗貽鵝Ф紂一〇)。

 自分の心の奥底にある寂しさ、弱さを素直に認めることができたとき、背伸びと息切れが和らぎ、周囲との関係が変わっていく。そして、神からの次なる一歩の目的が与えられる。そのとき、あらゆるものがその目的の下で、手段としての節度ある輝きを発し始める。これこそが、偶像からの開放の姿であると思う。それは心のとらわれの病理のただ中にいる人ばかりでなく、すべての人にとって大切な生き方であると思う。なぜならこの偶像の誘惑は、人生の全領域で、実に巧みにやってくるからである。








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