3章3話「使命感と共感性」
2009.01.08 Thursday 20:11

 3章3話「使命感と共感性」 

 自分の中に混ぜ物がないかのごとく考えると、「聖俗二元論」とは別に、「使命感至上主義」とも言えるアンバランスな生き方に陥ることがある。聖俗二元論のたとえでいえば、この使命感至上主義というのは、「俗」の部分も「聖」の一部である、あるいは、「聖」の実現のために必要な「俗」もあるとうそぶく方法である。

  雑誌「AERA」2008年4月14日号(朝日新聞社)に「牧師の性犯罪」についての記事が載った。心痛む事件である。もちろん本来なら、まず霊的、神学的な側面からの分析・洞察を行うべきところであるが、ここは筆者の役割上、心理カウンセラーの立場から、「使命感至上主義」の表れとして解説をしたいと思う。
 
 まずこのことから考えてみたい。
 加害者として問題を起こした牧師が、一般に「尊敬され、高尚な生き様を周囲から認められていた」「良い仕事をし、実績がある」「実際に交流があったが、とても信じられない」といった感想が寄せられることが多いことである。
 これには必然性がある。つまり、多くの場合、並の人材でなく、むしろ有能・大物で、本来豊かな仕事をしていく人のはずであったのだ。

 私は、問題を起こした牧師や指導者たちが最初から、いい加減な活動をしていたとはまったく思わない。ただ、その牧師や指導者の活動が評価され、拡大していく(活躍していく)なかで、次第に「使命感」が膨張してしまうことが大きな問題と結びついていくと考えている。大きな働きをする指導者にとって、使命感と共感性のバランスが大切なのだが、ある人は使命感ばかりが膨張してしまい、この共感性が枯れていくので、いざというときに常識的な自己点検ができなくなるのである。

 そしてこのことは一般の信仰者にも言えることである。人により、活躍の舞台が教会の奉仕であったり、世俗の職業生活であったり、地域社会であったりするかもしれないが、使命感に燃え、信仰を掲げ、良い働きと良い証しを立てている人がいる。傍目に目立つ人もいれば、人知れず自らの使命感に基づいて励んでいる人もいる。しかし、「使命感」が膨張してしまい、暴走したり、そこまでいかないまでも、周囲の人を傷つけ、翻弄してしまうことがある。

 そもそもどのように高貴な人の「使命感」にも、高尚でない人間的な「混ぜもの」が入っているものである。本当に高尚な人生を全うする人は、そうした混ぜものが自分の使命感に混入している、あるいは混入してくる危険性をリアルに自覚している人である。
 それがないと、役割や自分の立ち位置で得ている、自分の賜物(才能)や成熟さを超えた「底上げ」部分の評価や実績を、自分の評価や実績だと思いこんでしまいやすい。また、自分の「使命感」が絶対だと思い始めた瞬間から、使命感が最優先され、そのためなら他の物を(宗教をも)利用することが始まってしまう。そして自分の使命感、自分の人生のためなら、多少のことは許される、仕方がない、という感覚が強化されていくのではないだろうか。

 悲しいことに不祥事事件を起こした加害者が、それを認めた後も可能な限り、従来通りの活動を続けようとすることがある。混ぜものだらけの使命感であっても、また、ひからびた、悪臭を放つ使命感であっても、そして、世間からみれば使命感とはほど遠い個人の私利私欲にすぎないものであったとしても、本人からすればまだ幻想の「使命感」を手放せないでいるのである。

 義人はいない。英雄もいない。スーパーマンもいない。ただ、自らの内にある混ぜものを警戒・吟味し続ける謙虚な人たちがいて、神様から祝福を受けるのである。


 

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2020.09.15 Tuesday 20:11
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Comment
2009/01/13 10:36 PM posted by: ふじかけ
かわむかい さん

丁寧なコメントありがとうございます。

>その意味で、先生がお書きになっておられるような内容が一般信徒にとっても重要だと思います。この内容は、多くの方と共感していただきたい内容でございますので、私のブログで紹介させていただいてよろしいでしょうか。

牧師も信徒も、双方の信仰者全般の問題と言うのがありますよね。
ブログでの紹介。もちろんかまいません。光栄です。

またご指摘のような「日本人論」も大切な側面だと思います。

これからもお立ち寄りください。
2009/01/13 8:39 PM posted by: かわむかい
藤掛先生

いつも楽しく示唆に富む記事をありがとうございます。

 以前より、時々拝見させていただきいております。牧師の暴走の原因だけでなく、教会の信者の群れの中である信者が周囲の信者の方々とうまくいかなくなる原因の一つに、この使命感と共感性のバランスが崩れている方の存在があるのではないかと思っております。

 私の所属している教会では、有給の聖職者を置かないことをよしとするグループですので、この問題は、ある面深刻だとおもっております。この使命感と共感性のバランスが崩れてしまって、日常の仕事に加え、教会生活に疲れきってしまっておられたり、他の方をつかれきってしまわせる言動をなさる信者の方がおられることも、個人的に経験しました。

 また、私の所属するグループの運動の成立の過程で、他の教会からの差別化をはかった結果、他の教会に対して批判的な表現する傾向があることもあり、使命感と共感性のバランスを欠いてしまったために、私どものグループを離れたために、信仰者であること自体を放棄することに至る方もおられました。

 その意味で、先生がお書きになっておられるような内容が一般信徒にとっても重要だと思います。この内容は、多くの方と共感していただきたい内容でございますので、私のブログで紹介させていただいてよろしいでしょうか。

 特に、日本社会では、共感性の問題は重要だと思います。アメリカなどでは、元々人の話を効かないので、共感性に書けることになる側面がありますが、多様な人が存在するがゆえに、言語を介した共感性を構築する努力が求められるように思います。日本では共感性がかける原因のひとつとして、現代日本社会の通奏低音ともなっている、ある文化的な側面があるようにも思うのです。

 言わずとも分かるという暗黙の安心感というのか、後姿で教えるとかいったような非言語的なコミュニケーション手段に依存する部分が多いことが、本当は、分かっていないにもかかわらず、「分かっているつもり」となったり、「分かってもらっている」と思っていても、結局理解してもらえていないということすら気付かない、ということがおきているようにおもうのです。

 それから、以前書評で取り上げられておられた「闇を棲家とする私…」の中で、神沼先生が取り上げておられた戦時下、戦後の日本人に連綿として流れる闇の部分がご指摘の強行突破型というのか、使命感至上主義というのか、スローガンに流されていく部分を生み出しているような気がするのですが。共感性に対する感性の薄さというのか、同じでなければならないという社会の暗黙の前提が、社会としての暴走や集団としての暴走の大きな要因となっているような気がしてならないのです。

 戦前は、挙国一致とか、八紘一宇とかいった訳の分からないような概念で、共通性が語られた結果、共感性が薄くなっていたというよりは、強制的に無視するように仕向けられ、戦後は、誤った平等主義と良い増すか、公平さ、公正さ、平等性に関する理念が、この共感性を失わせるように思うのです。

 まとまりがないコメントで申し訳ありません。いつも、大変、ユニークな記事をありがとうございました。
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