講演「リーダーが脱線するとき」
2007.05.23 Wednesday 14:31
*これは、2003年4月23日(水)に、大宮ソニックシティで行った講演の内容です。ちょうど法務省を辞め、最初の講演です。平山正実先生(精神科医)の講演のあとに登壇しました。このときの対象はビジネスマンです。

 新しい課題に取り組むことは、ちょうど初めての町を歩くのに似ているとおっしゃった方がいます。その方によるとその際に必要なものが二つあって、一つは町の地図、もう一つは足元の本当に一歩先を照らす灯りであるというようなことをおっしゃっていました。ちょうど平山先生のお話を今、聞いていまして、パワー・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントの地図を見せていただいたなという感じがいたしました。2番手の私は、足元の少し先を照らすことを心がけてお話ししたいと思っています。
ドア 
最初に、確認かたがた少し申し上げたいことがあります。一応、今日はパワー・ハラスメントというのがキーワードになっておりますが、私としましてはパワー・ハラスメントだけでなくて、同じようなメカニズムにある様々な問題も一緒くたに含めてご説明したいと思っています。
 そもそもパワー・ハラスメントという言葉についての簡単なご説明をしなければなりません。これは別に学術的な用語でもなければ、精神医療や心理臨床の中で生まれた言葉でもありません。あるいは何かきちんとした哲学があって出てきた言葉でもないのです。突然キャッチコピーのように出てきた言葉だというふうに思います。
 調べてみますと、2001年9月ごろに誕生した言葉だと考えられます。どうしてかというと、これはクオレ・シー・キューブという民間企業がこのころこの名前を考え、使い始めているからです。それをたまたま『毎日新聞』が大々的に報じたことから一気に社会的に認知される言葉になったようです。
 このクオレ・シー・キューブというのは、企業と契約をしてメンタルヘルスのための電話相談などを請け負う会社です。ですから企業の裏の裏、かゆいところをみんな知っている、そういう会社だと思います。そこに、ある時期から急に若い男性からの相談が増えた。それまでの定番は、セクハラに代表されるように、女性がこんなに困っていますと訴えてきていたわけです。しかし、ある時期からは若い男性が「こんなに困っている。上司から人格を否定された」などと、いろんな恨みつらみの電話をかけてくるようになった。これはちょっと新しい時代に入ったのではないかと、このクオレ・シー・キューブは思ったのです。
 新しい時代に入ったというのは、意思表示がきちんとできない若者と、旧来の組織のあり方をただ一方的に押しつけるだけの管理職と、そういう世代ギャップの問題が深刻になる状況がこれから始まるのではないかと考えたわけです。そして、そういった世代ギャップをほっておくと組織の活力が奪われていくから何とかしましょうということで、その会社としてその問題をパラー・ハラスメントと名づけたということなのです。だんだんパワー・ハラスメントという言葉が注目を浴びる中で、若者世代側の問題の部分が薄れ、管理職側の問題が中心になりました。この会社のほうでとりあえず定義をしていますので、紹介しましょう。こういうふうに言っています。
 「組織・上司が職務権限を使って、職務とは関係のない事項について、あるいは職務上であっても適正な範囲を超えて、有形無形に部下に継続的に圧力を加えてくる。そして受ける側がそれを精神的負担に感じたときに、成立する。セクハラと同質のもので、セクハラはパワハラの一形態と考えられる」という定義です。
 ここでまず感じるのが、別にパワハラという言葉を使わなくても、そういう現象は、同じ量ではないかもしれませんがあったわけです。フランスの精神科医で、職場あるいは家族でのそういったハラスメント行為を研究されているイルゴイエンヌという人がいます。日本でも『モラル・ハラスメント』という言葉で翻訳本がいくつか紹介されています。その方がその本の中で、ハラスメントというのはアメリカで生まれた言葉だけれども、これは別にアメリカだけの問題ではないと述べています。日本についても「いじめ」という言葉で同じ現象を説明しているのだということを書いています。そのぐらい普遍的なことであるわけです。
 ですから別にそれまででも、職場のいじめとか職場での嫌がらせとかいう言葉で同じような現象は語られてきたところがあるわけですが、ここへきてパワー・ハラスメントという言葉が非常にヒットしたということになります。クオレ・シー・キューブのいうように世代間ギャップが大きくなったということもあるのかもしれません。しかし、個人的にはこのネーミングの良さもずいぶんと影響しているように思います。
私はカウンセラーですが、パワーという言葉はカウンセラーとして日ごろ感じている核心部分をくすぐってくれるようように思うからです。実はセクハラをする人たちは、例えば仮に発覚せずにセクハラを達成したとしても、性的な快感とか、あるいは愛情とか、そういう事柄に満足しようとしているだけではないのです。愛情や性欲の問題以上に、自分のパワーの問題なのです。
 これは、性的な犯罪でもそうですし、あるいは不倫や女性問題でトラブルを起こす人たちもそうです。決して愛情とか孤独とかというテーマではないのです。パワーなのです。自分のパワーをどうするか、自分のパワーをいかに傷つけないか、自分のパワーをいかに潤わせるかというようなことがテーマになっているところがすごく大きいのです。
 そういう意味で、パワー・ハラスメントというのは何かちょっと本質的なものを示唆してくれるような言葉の魔力があって、ネーミングの妙から定着した部分があるのではないかと思っています。ですから、パワーハラスメントも含め、パワーをめぐる問題行動全般も扱いたいと思うわけです。
 そしてもう一つ大事なことを確認しておきたいことがあります。本来、パワー・ハラスメントという言葉というのは、先ほど言いましたように世代間ギャップの問題、組織の活力の問題、意思表示や押しつけの問題というようなことでスタートしたと思うのですが、どうしてもまず何とかしようとしたときに、多くの場合は法律的な問題として扱われることがほとんどであると思います。セクハラもそうです。こんなことを言ったらアウトでこういうことを言っていたらセーフと言って線引きをしたり、あるいは裁判で勝った、負けたとか、そういう話になっているわけです。
 しかし、今日、私がお伝えしたいことの中心は、この問題を法律的な問題として扱うのでなく、広い意味での心理的な問題として扱いたいと思っています。
そういう意味で、先ほど平山先生が自己愛人格といった言葉を使って、一つの地図を示していただきました。自己愛人格という、かなり固定した病理的な人格を持った人がこういったパワハラのような問題行動を先鋭的に行いがちですし、被害甚大で、ケーススタディとして教訓を多く得ることができるでしょう。が、同時に自己愛人格までいかなくても、自己愛的な傾向とかいったものであれば、実は人間である以上、私にもまた多くの方々にもあるわけです。
ここでは、心理的な問題として、それも私たちひとりびとりにある自己愛的な傾向、すなわちパワーを自分に求めようとするような心理的な適応の問題として考えていきたいと思うわけです。そういう意味では法律的な問題でないなら興味がないという方もおられるかもしれません。自己愛人格という非常に病理的な人格構造を扱った特殊な事例なんて、自分には関係がないとおっしゃる方もあられるかもしれません。しかし、ここでは、もう少し自分の身近な心の問題として自分を見つめ直したり、自分と身近な人間関係にある人を見直すというのでしょうか、そういうことを提供できればと思っております。
 さて、自分のパワーに頼ろうとし、自己愛的な傾向がある人というのは、本当は心理相談というのが嫌いなのです。自分はそれほど困っていないし、大きな問題もないのだし、ほっておいてほしいという感じです。そういうときにいつも奥の手があって、どんなに手ごわい、面接に拒否的な人でも必ず最後に使う伝家の宝刀を持っていました。それはある1枚の絵をかいてもらうのです。普通は絵をかきません。かきたくありません。しかし、この絵ですとかいてくれます。
 早速ですが、皆様のお手元に小さなクリーム色のカードがあると思います。今、私がその絵の題を申し上げます。カードを配りますが、別にそれを回収することもありませんし、見せていただくことも予定しておりません。せっかくですのでイメージを使った演習に参加していただこうと思っています。自分のために後で振り返られるように、字でその情景を書きとめておくことでも結構ですし、スケッチしていただいても結構ですし、本格的にかいていただいても結構です。
こういう題です。「雨の中の私」という題で絵を描いてください。あるいは絵を描くとしたら、どんな場面を描くでしょうか。
 頭の中でも結構ですし、カードの上でも結構ですし、少し忘れないようにメモするつもりで挑戦してください。実際にあったことでも空想でも構いません。雨が降っていて、そして自分が登場すれば、どのような場面でも構いません。雨と自分にどのようなものをつけ加えて描いても結構です。
(作業中・約1分半)
 後で種明かしをしますので、安心して描いていただきたいと思います。詳しくは企業秘密ですのですべてをお伝えすることはできませんが、あるところまではお伝えしたいと思います。 
 それでは、イメージを膨らませるために私のほうが少し質問させていただきます。
今、皆さんが頭の中で描いた、あるいは紙の上で描いた「雨の中の私」というイメージについてですが、その中で雨はどのような降りで降っているでしょうか。強い降り、弱い降り、いろいろとあると思います。またその雨はどのぐらい前から、またこれから先、どのぐらい先まで降っているかというようなことも、ちょっとイメージしていただきます。
 ある方はどしゃ降りで急に降ってきて、しかしすぐにやんでしまうということを思い描いたかもしれません。梅雨時のように1週間もじめじめと降り続いているような、そんな雨の方もいるかもしれません。雨の降り方ということをちょっと自分の中でイメージしてみてください。それから、主人公である私は雨をどのように避けているのか、また、どのような場面でどのような状況になっているのかということも考えていただきたいと思います。
 また絵の中で、主人公である私がどのような気持ちでいるのか。さらには時間がたつと、この後この絵はどのように展開していくのか。ちょうど物語のように、結末のほうも考えていただければと思います。
 ――さて、それではそろそろ種明かしをしましょう。シンプルなことだけ、そして今日のお話に関係あることだけ、簡単に申し上げます。この「雨の中の私」の解釈にあたっては、雨というのをストレス、あるいは外的圧力の象徴と考えます。ですから、どしゃ降りであれば大きなストレスを今感じているというふうにまず連想します。弱い雨であれば弱いストレスを感じているという風に連想するわけです。
 昔からずっと弱い雨が連続して降り続けていて、これから先もずっと降り続けていくようなイメージをお持ちだったら、弱いストレスかもしれませんがそういったものが持続している感じ。急にどしゃ降りになって急に通り雨でやんでしまうことであれば、急に大きなストレスの状況下に追い込まれて、でも長くは続かないだろうというふうに思っている感じというのを伝えてくれるわけです。
 実は、雨、つまりストレスが大きい、弱いは、そんなに大きな問題ではありません。それについてどう対応するかというのが大きな問題です。ですから、絵の中の主人公がどのように雨を避けているかということが大事なポイントです。多分、社会人の方の場合、この描画の調査によると50〜60%の方が傘を差して雨をよけるということになります。これは非常に自分の身の丈に合った能動的な解決、努力ということで、非常に標準的で安定的な対応をしているということになります。
 ただ、傘を差していてもその人らしさが出ます。ある方はビーチパラソルのようにばかでかい傘で、1滴もぬれるものかと頑張りますが、横殴りの雨で足がびしょびしょになったりもするわけです。それは雨を避けようとすごいエネルギーを、あるいは配慮をしているけれども、うまく成功していないということになるわけです。
 次に2番目に多いパターンですが、雨宿りという雨の避け方があります。店の軒先だったり大きな木陰だったりして、傘はなくても雨をよけているのです。これは自分の力ではなくてほかの力を利用していますので、ポジティブにいえば状況をよく把握、観察して状況をうまく利用して、しのいでいける人ということになります。ちょっとネガティブにいえば、非常に他力的で受身的というようなこともいえる場合があるということです。
 それから、いろんな場面で重要な人を登場させる人がいます。例えば同僚や友人と待ち合わせをしている場面とか。そうすると、そういった人間関係の中でストレスを和らげていくような、そういった意味合いが読み取れるわけです。ティーンエージャーにかいてもらうと、かなりの若者が恋人とか親友をかきます。これもそういった意味があります。
 また、部屋の中から窓の外の雨を見ていたり、車の中から外の雨を見ていたりということもあります。雨とは違う場所にいることで雨を避けています。これは本当に生々しい外の現実からちょっと距離を置きまして、自分の世界で自分を整えているというのでしょうか。これも豊かな自分の世界を持っているという面もありますし、非常に主観的で、逃避的である場合もあります。
 宮崎アニメで「となりのトトロ」というアニメがあります。例えばそういった名画を見てみますと、結構雨が心象的に使われています。お母さんが入院していて、お父さんは大学の先生で、遠い町に通っていて、田舎で姉妹が一生懸命暮らしているのです。あるときお父さんの帰りが遅くなってしまって、暗い夜道の停留所で姉妹が待っていたとき、ずっと雨が降っていました。あるいは男の子に傘を貸したり、借りなかったりという場面がありますけれど、みんな雨がストレスの象徴だと考えると、きれいに使われています。そういうふうに見ると本当にアニメがおもしろくなくなります(笑い)ので、どちらかとるしかないのですけれども・・・。
そういうことで、雨というのはストレスを象徴的にあらわすということなのです。
 この「雨の中の私」の絵は、先ほど言ったような面接の場面で非常に喜々として描いてもらっています。この絵だとかいてくれる人がたくさんいます。もっと違ういろんな描画テストがありますけれども、そういうのはすごく拒否的でも、この絵はかいてくれるというようなことがあるのです。それはどういうことかというと、今日の「脱線」という問題と関係があると思っていますので、それにも重ねながらちょっとお話をしたいと思います。
 私は、人が大きなストレスにあったときに二つの反応の仕方があると思っています。一つは、大きな圧力がかかったときにへたり込むということです。あるいは甘えるでもいいかもしれません。もう一つは、大きなストレスがかかったときに、むきになって頑張る。それもかなり頑張る。背伸び。あるいはやせ我慢です。先のへたり込むほうが退行というメカニズムだとすると、この背伸びのほうが補償ということになります。ほかにもいろいろあると思いますが、単純化するとこの二つの反応に分けられるのでないかな私は考えているわけです。
 私は、企業のいろんな問題をうかがったり、事例を読んだり、あるいは実際に脱線した人たちと会うときに、この二つの反応のあることを感じます。というのは、企業のメンタルヘルスで、多くの本や多くのセミナーや多くの事例はこちらの「へたり込み」を扱っています。大変な目に遭ったときにすごく気分が落ち込んで食欲がなくなって、震えがとまらなくなって眠れなくなってとか、出社ができなくなってというようなことで、へたり込む姿がそこにはあるわけです。へたり込む人たちをどう援助するかということで、企業カウンセラーや企業の医師が活躍をするということになっているわけです。そしてこういう人たちが助けを求めてきますので、援助が成立するわけです。
 この二つの反応自体は別に問題はなくて、健康な人もこの二つをうまく使い分けながら柔軟に生きているわけです。けれども、どんなときにもへたり込むことだけで対応し、ひたすら打ちひしがれて疲弊して、こちらばかりで反応していくと問題が生じるわけです。またこちらの背伸びもそうです。我々社会人としては締め切り仕事があれば、時には徹夜をしてでもやらなければいけないわけです。そういう意味ではこういう生き方は当然必要なわけですけれども、いつもすべての場面でこれだけやっていたら、多分問題が生じてくると思います。
 そして、これだけへたり込んであまりに退行していくような生き方だけ続けていると、例えば学生であれば引きこもりの不登校みたいになっていく場合もあると思いますし、精神疾患のような状態になっていく場合もあると思うわけです。
また、こちらのへたり込みが「疲弊」だとすると、こちらの背伸びの末に「脱線」になるのだと思います。
 私は国の心理技官として犯罪者との面接をしていた時期があります。セクハラがもっとすごくなると、本当に性犯罪者になっていくのです。パワハラも本当にひどくなってくると、傷害や暴行の犯罪者になっていくわけです。極端にこれだけやっていくときには、すごく脱線したような、暴走するような、そして最後は犯罪にまで至るかもしれないような落とし穴が待っている場合があるということです。
 そしてこの二つの反応は本当に天と地の差なのです。打ちひしがれて疲弊して、うなだれてへたり込んでいる人というのは、こちらが助けようと思えばそれに喜んで応じてくれるので、助けがいがあるといいますか、援助しがいがあるといいますか、かわいげがあるということになります。人間援助のモデルに乗ってくるわけです。
 こちらの背伸び型の場合にはそうではないですね。ほっとおいてくれというメッセージが来ます。こちらは助けてくれという感じです。こちらは助けてあげたいのに、ほっといてくれ、自分は問題がない、自分はうまくいっていると言うのです。実にかわいげがない。そして自分で自己修正するかというと、一定以上これが硬直化していくと自己修正できないので、ますます同じことを繰り返していきます。
 例えばセクハラの深刻な傾向のある人に、いくらセクハラをすると裁判ざたになりますよとか、こうなったら裁判では負けますよと説明しても、一定以上までいっている人は繰り返すと思います。やめられないわけです。それは知識の問題ではないわけです。生き方のひずみの問題になってくるからやめられないわけです。そういう意味で非常に背伸び型の側になると、援助の対象でなくて、裁く対象になりがちなわけです。
実際に裁く、裁かないというところから、
法律的な問題につながりやすいところがあるのでしょうが、裁くだけではなくて、背後の生き方や人生の問題を扱うことも大切で、この傾向が軽微な人や、あるいはごくごく普通の人が持っている、そういった傾向みたいなものを見ていくことが、これからは大事なのではないかと私は考えているわけです。
 脱線する人たちというのは、重篤な人格障害の場合もありますが、多くはそうではなくて、軽い自己愛的な傾向、兆しを持っていて、生き方として少し無理をしているわけです。そういった人たちが、深みにはまって大きな失敗していくこともありますので、予防・援助することを考えていく価値があると思います。
 例えば私はこんな人を面接したことがあって、非常に私は「うーん」とうなってしまいました。偶然ですけれども、ちょうど同じころ、続けてほぼ同じ人生の問題を起こした人を面接したのです。あまり言うと支障がありますので、ちょっと大ざっぱに言うとこういう方々でした。
 ある組織のかなり上位の管理職の方だったのです。その企業では出世コースに乗る採用とそうでない採用と、いろいろ分かれていたのですが、その方は出世コースの採用ではなかったのですけれど非常に才能があって努力もしたので、ぐんぐんと頭角をあらわして非常に出世なさったのです。加えて非常に教養もあって、青二才の私がこんな人の面接をするのも何かちょっと気が引けるなと思いながら面接をしていました。
 その方が出世の激戦の中で、別に敗れたわけではないのですけれども、トップグループには追いつけなかったのです。同期、同世代の出世コースで採用された人たちと互角に闘っていたわけですけれども、40代後半あるいは40代前半だったでしょうか、やはり勝てなかったなという感じを抱いたのです。そこで彼の説明は終わるのです。でも、明らかにそのころから不倫が始まるのです。それは愛人を囲う感じで、高いマンションを買い与えて、お手当てというか、生活費をバンバン渡し始める。
 それで、どうしてそんな金のかかることができるのかと聞いたら、最初は自分の貯金を家族に内緒(ないしょ)で崩していったわけですけれども、それも限界がある。それでどうしたかというと、自分の会社の金を操作して貢ぎ始めたのです。貢ぎに貢いで発覚し、かなりの額の使い込みをしたということで刑事事件に問われたのです。理解に苦しむような高級なマンションを買い与えたり、一緒に豪遊をしたりしていくわけです。この同じパターンの方を続けて2人面接しました。さらに似ているなと思ったのは、本人は出世コースに行き詰ったことと女性問題を起こしたこととを全く別のこととして話すのですけど、聞いている私にすると、連動して動いているようにしか思えないんです。
 本人は今になってみると、「どうしてそんな女性に心を奪われたのかわからない」と言うのです。貢いだ愛人は本人が捕まったらすぐにおさらばしています。それで、お2人とも離婚もされて天涯孤独になって、そして退職金ももらえずにこれからすごい人生が待っているわけで、いろいろと後悔しているのですが、どうしてその女性に入れ込んだかわからないと言うのです。しかし、はたから見ると明らかに、本人たちの生き方のひずみが伝わってくるのです。それはパワーの問題なのですね。
 自分が有能であるか、無力であるかといった基準の中で、彼らは本当に仕事で出世組を追い抜くことに生きがいを感じていたわけですし、そうできる自分というのを味わいつつ、猪突猛進の人生、刻苦勉励の仕事ぶりをしていたわけです。それが行き詰ったときに、彼らからすると人生のとてつもない危機となったわけです。
 出世コースと関係のない人生を歩んでいる人から見れば、出世の行き詰まりなど別にそれはそれでしようがないではないかと素朴に思う部分もあるでしょう。しかし、生活の中で、人それぞれ違う分野かもしれませんが、負けようが劣るようであろうが仕方がない、そう素朴に思えないことというのは当然あるわけです。極端に言うと、それで敗れたら死ぬも同じだというぐらいに思い込む場合というのは必ずあります。特に余裕のない背伸び型ばかりを選択し始めると、だんだん視野狭窄になってきますので、これかあれか、100かゼロかということになるのです。
 その人たちが、それで本当に死ぬほどの危機を味わった末に、今度は女性問題で活路を見出していったのです。これはどういうことかというと、さきほども言いましたようにこれはパワーの問題なのです。孤独や愛情の問題ではないわけです。ですから、自分のパワーというのは社会的な活躍とか金銭的な収入で味わうということもできるわけですが、それ以上に、それと同じように例えば愛人をつくった人の場合ですと、女性を男性として支配するというのでしょうか、自分のパワーを見せびらかすように豪華な貢ぎ物をするというのでしょうか、そういった中で自分のパワーを確認しているわけです。
 会社で活躍するというパワーを失いつつあった人が女性を囲うということで、また少し矛先を変えたパワーをもう一度味わおうとしたのです。そういう意味では、非常にそういう人たちには絶望感があるのです。背伸びをしながらやせ我慢をしながら、それだけで生きている人たちというのは、我々もそうかもしれませんけれども、少しでもそうした生き方をやめると死が待っているかのごとく、背後に絶望感のようなものを持っているのです。
 もう一つ、悲しいことは、当事者がそれを全く自覚していないということです。正確にいうと、自覚していないというよりは、そこはかとなく思っているのですね。働きバチのように働いて出世コースぎりぎりのところで闘っていて、「それは仕事だからベストを尽くしただけです」とさわやかに言うわけです。でも話を聞けば聞くほど、そうではないですね。
 そういう意味でいうと、自分は管理職登用コースで採用されなかった劣等感とか様々な自分の負い目と闘って、そしてそんなことを見ないようにしているというのでしょうか、自分の劣等感や無力感、そういった弱さを見ないようにしている。さきほどの命がけという言葉を使えば、命がけでそういったものを否認、否定しているという姿です。だからこそ、この生き方が魔力を持ってしまう、止まらなくなってしまうということがいえるわけです。
 私のかつての仕事では、例えば本当にセクハラという以上に、性的な犯罪、強姦をするようなことまでいくような人たちと面接をしたり、あるいは嫌がらせというよりはもう少し派手な暴力ざたまで起こすような人たちとの面接などを経験しました。そうした人たちの多くは、必ず前段階の息切れがあるのです。
パワーを身につけようとして一生懸命背伸びをしてやせ我慢をして補償してきた人たちが、息切れを感じ始めているのです。ですから面接するときには、そういう人に限って良いことを言うのです。今回はこんなに業績を上げましたとか、こんなに職場はうまくいっていましたと言うのです。けれども、冷静に聞いていくと、例えば実は大きな病気をしたりとか、家庭で離婚の危機があったりとか、仕事ですごく行き詰まりの兆しが出てきたりとか、いろんな問題を実は抱えているわけです。そして、そういうのを当事者は見ないようにしていますのでなかなか最初は聞けないわけです。けれども、当たりをつけていくと、そういった問題がよく出てきます。
 今日はこの講演会があるということで、刑事事件ではない普通のセクハラ。普通のセクハラというのは変ですけれども、セクハラ裁判の判例を幾つか読んでみました。たとえば、私だったらどう面接するかなと思って呼んでみました。たとえばこうです。
 ある7〜8人の従業員を抱える支店長さんが、その中の女性職員に対してさわったり抱きすくめたり性的な誘惑をしたり、いろんな嫌らしいことをしたようなのですが、それを拒否されたために退職させたという裁判事例がありました。その中に加害者側の状況がちょっとだけ書いてあったのです。それはすごくやり手の支店長さんで、非常に仕事熱心で仕事もうまく運んでいて、「そのときも仕事の商談がうまくまとまったので、ついうれしくなって、一緒に喜び合うようなつもりでさわりました」とか、そんな供述をしていたのです。
 その支店は業績こそ年々上がっていましたけれども、赤字だったのです。実はその支店長さんが考え出したシステムの商売をして、一気に赤字が減り始めたということなのです。いかに仕事熱心かということが伝わってきます。例えば私が面接をするとすれば、「とはいえ黒字にできない自分に対する魅力がなかったのかな」とか、あるいは「ヒットしたその人のやり方が、3〜4年間うまく功を奏して業績が回復したということでしたけれども、そのヒットしたやり方もそろそろかげりが出てきたのではないのかな」とか聞きますね。
 仕事だけ見ても、裏側のその人の無力感とか絶望感を刺激するエピソードというのは無限にあることなのです。そういったところは、脱線する人を理解する場合にすごく大切なことではないかと思います。
 今日の講演の副題にある「中年期の危機」という言葉は、私が提案して書かせていただものですけれど、男性は40歳ぐらいから、特にパワーという意味では共通して衰えます。体力とか容貌も体型も衰えていきますし、仕事の見通しも多くの人の場合にはだんだん見えてきてしまうわけです。そういう意味では、男性性あるいは女性性、人としてのパワーが揺さぶられるときなのです。そういう意味で40代以降にいろいろな脱線が起こりやすいといわれていることも、うなずけるものだと思うわけです。
 ただ、こういう生き方をしていて息切れするといろんな問題が起きるのかというと、そう単純でもないのです。そこには悪循環が働いているということがいえると思うのです。どういう悪循環かというと、よくも悪くも努力をして背伸びをしている方がいる。やせ我慢をする。ところがスーパーマンでも神様でもないわけですから、いつも背伸びをして、いつもやせ我慢をして、いつもうまくいくはずはないのです。どこかで必ず限界がきます。 そういうときに息切れして、行き詰まるわけです。これは100人いたら100人とも同じことです。大なり小なり、同じことになります。このときに余裕があったり、先ほどの背伸び、やせ我慢が極端に昂進していない人は、息切れしたらちょっと休もうかとか、ちょっと目標を下げようかとか、立ちどまろうかとか、相談してみようかということで、次の解決に入るわけです。
 ところが余裕がなく、自分を頼りとしすぎて、あるいはそういった生き方の積み重ねが非常に大きい人たちは、息切れしてきたのに息切れしたとは自覚しないのです、もっと頑張ればよかったと思うのです。息切れしてくると、もっと頑張らなきゃと思って、もっと背伸び、やせ我慢をします。もっと背伸び、やせ我慢をしてしまうと、息切れをしていたわけですから、これはもっと強い息切れが始まります。
 例えば何か手記を読んだとき、営業の方で自分の営業成績の達成がうまくいかなかったといったときに、その原因は社会情勢や自分の能力、そんなところだったのかもしれませんけれども、もっともっと努力すべきだと思って、もっともっと働いた。ところが成績は上がるどころか、下がったり横ばいになってしまった。それでますます、もっと頑張ったというようなことです。
 いずれにしましても、背伸び、やせ我慢の息切れというのは悪循環に入っていきます。もっと背伸びしてやせ我慢をすると、もっと息切れするということで、「もっと」がどんどんつながっていくということが起こり得るわけです。そしてこの背伸びと息切れの悪循環の果てに脱線するのです。脱線するというのは、はたから見たら脱線ですけれども、本人から見ればプラスの部分といいますか、適応努力の部分が入っているのです。
 脱線の仕方は、幻想的であったり破壊的であったりしますけれども、本人からすれば一種の自己拡大感を味わっているのです。パワーを味わっているわけです。ですから例えば人を殴るとか、人を痛めつけるとか、人を支配するとか、あるいは人を困惑させるというのは、その人のパワーをゆがんだ形で味わうことのできる絶好の機会になっていますので、本当はだめで弱い自分をゆがんだ形で勇気づけるというのでしょうか、本人からするとそんなような意味合いが入っているわけです。
 例えばセクハラというのを見た場合、自分に権力がなければ対価型のセクハラはできないわけですから、対価型のセクハラをする人というのは自分の権力を確認するような快感があるのです。それから同時に女性が嫌がるさまを見ることで、例えば男性だったらゆがんだ男性性の補償や確認を行い、男性性の潤いを求めていくようなところがあるわけです。
 ギャンブルなんかもそうです。あれはギャンブルをしていて普通に負け惜しみを言っている分にはかわいいですけれども、本当にギャンブルする人たちは真顔で、「次やったら絶対勝てます」と言うんです。あるいは「これまでもこんなに成功してました」とかオーバーに言うわけです。このギャンブルもパワーの問題が入ってきます。
 ギャンブルで時たま勝つことで、その瞬間だけ自分のパワーを感じるわけですし、次にまたギャンブルで成功することを求めて、再度自分のパワーを確認するような意味合いが本人には出てくるわけです。そういう意味では脱線するというのは、すごく破壊的、幻想的な自己拡大感のパワーの確認と潤いの作業が必ず入っていると言えるだろうと思います。
ですから本人はやめられないわけですし、状況が、大体そういう人に限って悪化した状況が続いていきますので、ますます次の脱線をする必要が出てくるわけです。
 脱線をして失敗したなと思って立ち直る人と、脱線に脱線を重ねていく人の分岐点というのが、私はあると思うのです。それは後悔をするか悩むかという分岐点です。実はこの悪循環を続ける人たちは後悔します。後悔するけれども悩みません。どういうことか。後悔というのは、「あのときのあれがなかったらうまくいったな」という感じです。あのときはこうだったので失敗しました、後悔しています。でも本当の自分ならそんな弱いことはありません。本当の自分だったらそんなばかはしません。あのときはああだったから、あのときはこんな誘い話をしてきたやつがいたから、たまたまこんな商談が失敗したから、たまたまこんな経済状況になったからということで、後悔するのです。
 でも自分の本来的なあり方とか自分の生き方とか、自分の無力さ、自分の劣っているさまを認めるということが全くないのです。悩まないわけです。ですから本当に後悔しただけでなくて悩むような人は解決がありますし、出口が近づいてきている証拠なのです。
 それからもう一つ、この悪循環の中で気をつけなければいけないことは、本人が自覚していないと申し上げましたけれども、周りのそういう問題意識を持った管理職やあるいは同僚から見ても、なかなか背伸びや息切れはよく見えないということがあります。「困っていません」と言って生きているわけですから、周りの人は、困っていませんというメッセージを絶えず受け続けているのです。
 ですから、困ってないんだな、努力家でちょっと無理をしすぎているし、ちょっと目標が高いし余裕がなさすぎるかもしれないけれども頑張っているんだな、というふうに周囲は思うわけです。そのぐらいこういう否定をしている生き方というのは、なかなか周りからも問題意識がないとよく見えないということです。
 それではどうすればいいのかということですけれども、レジュメの3番に書いたようなことです。限界設定をしてあげたり、他者の援助や協力のもとに活動を行っていくことを学んでもらう必要があります。絶えず選択肢を広く持たせることや、失敗してもそこから肯定的な意味を汲み取ることなど、たくさんの援助ポイントがありますが、要するに背伸びと息切れの悪循環を和らげ、やみくもに強行突破する姿勢を変えていく、ということになると思います。
しかしそうしたこと以上に、特に大事なことを申し上げます。大きな援助者、指導者としての極意のようなものです。それは私たち自分自身が、指導者なら指導者が、自分の中のやせ我慢、背伸びと息切れの部分を、まず自分の中に見つけることです。そうすると、不思議とそういった周りの人たちの息切れ状態というのが見えてきます。それが私は最大の極意ではないかという感じがいたします。
 最後の最後ですがお手元に資料をお配りしました。これはお帰りになってごらんいただきたいと思います。採点方法も書いてありますが、「状態不安尺度」とあります。これは統計的につくられた尺度ですが、これはいわば私の言葉でいえば息切れチェックということです。今日の夜寝る前でも、また週末でも、1人静かにチェックしていただければと思います。
 次の「情緒的支援ネットワーク尺度とストレスフルな職場環境尺度」というのは、職場環境を評価、把握するものです。これもなかなか難しい作業ですのでこういった尺度などを使って、いま一度、自分の置かれている職場の状態というのもチェックして見ていただきまして、そして少し考えていただく機会になればと思っております。
 以上で私のほうのお話を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

(2003年4月23日(水)、大宮ソニックシティ 601会議室)


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