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2024.02.01 Thursday
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真摯にふざける
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2010.03.31 Wednesday 16:17ほぼ日手帳の文章から
「どんなに厳しい局面でも、
なんとかして『ふざけようとする』、
その姿勢には感服しました。」
<スソアキコさんが『スソさんの楽しい帽子教室。』の中で>
ふざける、という語感は人によって違うのだろうが、私は共感する。
「ふざける」ためには、自分や現状を、きちんと客観視できないとならない。
それも、「ふざける」感じがより強く伝わるためには、日頃ついつい目を向けないで済ませている現実の姿を、とりあつかわねばならない。
一見、非の打ち所のない、他の選択肢が見あたらない局面こそ、
そして、保守的で、正統的で、正しい世界の中でこそ、
「ふざける」センスが求められている。
真摯に「ふざける」人は、なごみの人ではない。実は真実を直視しようとする人なのである。
→ニーバーもこんなことを言っている。ユーモアと信仰 -
フィフス アレー ステュディオ
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2010.03.30 Tuesday 20:01
月曜日の夜のささやかなお楽しみ。
相談室の仕事の帰り道、東京ミッドタウンを通って六本木駅に向かうのだが、
そのとき、ミッドタウンのプラザB1の文具店「5th Alley Studio」の前を通る。
この文具店の商品が、不思議な魅力がある。
機能性とデザイン性の双方を追求しているということなのか、
初めてみる、独特の文具ばかりが並んでいる。
しかも、値段もリーズナブル。
今週は、「stick time memo」というのを買った。いろいろなタイプのものがあったが、
私の選んだのは一番地味な、付せんタイプのものだ。その日の9時から21時までの予定メモを記入し、パソコン(写真)や手帳に貼っておける。 -
ジャズと、ラーメンと、半年間
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2010.03.29 Monday 23:22
先週の土曜日。上尾エリントンという小さな店に、ジャズを聴きに行った。半年ぶりである。半年でずいぶんと年をとったのか、あまり心が躍らなかった。(写真は、エリントンの看板)
今日、半年ぶりに、タイ風ラーメンを相談室のお隣のタイ料理店で食べた。といっても先週も同じ店で、キムヤンクン・ラーメンを食べたのだが…。いずれも半年ぶりである。半年でずいぶんと年をとったのか、額から汗が出て仕方がなかった。それも、2週続けて。(写真は、タイ風ラーメン。)
すこしずつ半年前のコンディションに戻したいと思いながらも、
本当は、すこしずつ、新しいコンディションを自分なりに創り出さねばならないのだと
感じ始めている。 -
「完了した」
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2010.03.29 Monday 22:59ヨハネの福音書19章28〜30節
イエスは、… 「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。(30節)
人は、死の間際、自分の人生をさして、「完了した」と言えるものだろうか。
どんなに成功した人でも、どんなに信仰深い人でも、どんなに満ち足りている人でも、完了した、と思うことは不可能であるはずだ。
しかし、神から、”あなたの生涯は、なすべきことをなし、完了したのだ”と言われたとき、はじめて、「完了した」と言えるのではないだろうか。 -
脱藩前夜の物語
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2010.03.28 Sunday 23:54
大河ドラマ「竜馬伝」。今晩は、竜馬が悩みながら脱藩するまでを描く。
竜馬の脱藩の計画を知った家族が、悩み、とまどいながらもそれを受け入れるシーンがなかなかに感動的だった。
…全然、龍馬のスケールではないが、私は自分が就職を決めたころをありありと思いだした。
周囲はだれもが、私は小学校の先生になると思っていた。
それが突然、少年鑑別所に就職することにしたのだった。小学校の先生だと定住生活がある程度可能だが、鑑別所となると全国転勤族にもなる。また仕事の内容もかなり違ってくる。
私は、臨床心理学をきちんと学ぶためにも、一番いい就職なのだと周囲には説明はしたものの、
だれもぴんと来ていなかった。
当時は、臨床心理学の大学院はあまりなく、臨床心理士制度もなかった。
また、少年鑑別所の仕事に対するイメージもあまりなく、
母などは、かなり暗いイメージを鑑別所に持っていたようだが、最初から賛成してくれた。
また、私はキリスト教の信仰を持っていたのであるが、当時教会では、カウンセリングや心理学のイメージはかなり悪かった。あまり親しくない他の教会の方で、私がカウンセラーを目指すことを知ると、反対だと言ってくる人がいた。が、同じ教会の人からは、面と向かってそんなことを言われることはなかった。
私にしてみれば、就職は、99%の悲壮感と1%の希望の出発であったが、
周囲にしてみれば、危なっかしい若者が冒険するのを、心配し、でも邪魔をするのでなく、ひたすら応援してきたのだなあと…、しみじみ思い返したのだった。 -
ある禅問答の話(2)
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2010.03.28 Sunday 18:20ある禅問答の話(1)は、こちら。
見込んだ修行僧の話。若い娘に抱きつかれたとき、岩に枯れ木が寄りかかるようなものだと言い、平然と言い放った。しかし、長年、修行僧の世話をみていた老婆は烈火のごとく怒った。
「私は、20年をかけて、こんな俗物を育てていたのか」と。
さて、この禅問答を読んだ当の主人公(キャリア警官)竜崎は、現実の経験を通して、この禅問答の意味(老婆の怒った理由)がわかるようになる。
友人とこう会話する。
友人「俺には理解できない。…(婆さんが)どうして怒りだしたんだ?」
竜崎「欺いたからだ」
友人「欺いた? 婆さんをか?」
竜崎「そう。そして、自分を欺いた。若い女が抱きついてきたとき、僧侶は本当はどんな気持ちだったと思う?」
友人「若い修行僧なんだろう? そりゃ、興奮してどきまぎしたんじゃないか?」
竜崎「おそらくそれどころじゃないだろう。ずっと禁欲生活を送っていたはずだ。そんな状態で、若い魅力的な女性が抱きついてきたんだ。もし、おまえがその修行僧だったら、どんな気持ちになる?」
友人「うーん。それはたまらんな。身悶えするくらいに苦しむかもしれない」
竜崎「身悶えすればよかったんだ」
友人「何だって?」。
竜崎「…そのとき、感じたままに苦しみ、身悶えし、じたばたすればよかったんだ。それが、本当の姿だ。自分のありのままの姿を認めればよかったんだ。岩に枯れ木が倒れかかったようなものだ、などと言ってすましているのは、嘘だ。そして、自分に嘘をついている限り、本当の修行などできるはずがない。だから、老婆は怒ったのだ。『私は長年、こんんあ俗物の面倒を見てきたのか』と、悔しくて悔しくてたまらなかったんだ」
そして竜崎は、現在進行形で、自分の悩んできたことにあてはめ、
「俺は、この修行僧と同じく、自分に嘘をつこうとしていた。自分で自分を欺きながら、苦しみから逃れようとしていたんだ。だが、それが間違いだと気づいた。…この苦しみから逃れる方法などない。悩み、のたうち回っていればいい。そう覚悟を決めたんだ。…悩み苦しんでいる自分を認めてしまおう。そう思った…」
(3)に続く。 -
質問にこたえて:藤掛以外の牧会塾を教えて?
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2010.03.28 Sunday 16:56質問:藤掛先生のクラス以外を、紹介してください。牧師先生が講師のクラスに興味があります。
うーん。世俗の専門家ではダメですか〜。しかし、まずは聖書から、という点はわかります。
2つ、私なりに紹介します。(開講日初日まで、申し込みが可能です。)
堀 肇クラス 前期 定員20名 4月20日(火)スタート
掘肇節といってもよい、おだやかで、ユーモアのあるお話です。心理学的なものを扱われていますが、基本は牧師としての聖書理解を土台にされています。紅茶通で、おもてなし心を実践されています。受講者同士の話し合いのときもあるそうです。堀先生は、聖学院大学総合研究所の始めた「電話牧会相談」の担当者でもあって、牧師の牧師のようなお働きもされています。
また、このクラスは、信徒の方も受講できます。
→詳しくはこちら
坂野慧吉クラス 前期 定員20名 4月27日(火)スタート
このクラスは、牧会塾の牧会塾たるゆえんの代表クラスです。牧会と神学の統合を目指してゆく授業が毎回行われています。一方的な講義だけではなく、毎回出されるテーマにそってディスカッションしながら進むそうです。実は坂野牧師は、私が中学生のころから通っている教会の牧師でもあります。私の臨床心理士としての提言や分析も、ルーツはかつて聞いた説教の中にあったりして、坂野牧師の説教で育まれてきたように思います。このクラスは、牧師とその配偶者専用のクラスです。→ 詳しくはこちら -
プラットフォーム
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2010.03.25 Thursday 19:48私は、最近の「霊性」ブーム、自助グループブームというのは、カウンセリングブームと、底流では相当重なっていると考えている。
そして昨年度から御茶ノ水で始まった「牧会塾」も、深い底流では、やはりあるところが重なっているのではないかと考えている。
ある老練な牧師が、(牧会塾のことを知らない方だと思うが)ある会場で、牧会塾について、発言していた。いわく、お偉い牧師が、生徒の牧師に、牧会についていろいろとありがたく教える塾だそうですよ、と。ずいぶんと皮肉った言葉だと思うが、結論からいえば、まったく違う。
「また、牧会者自身の自己理解、霊的成長、メンタルケアー、家族関係の配慮も重要になってきています。 「牧会塾」は、そのような同じ課題を担う方々と出会い、学び合い、慰めと励ましを得て、再び召命の場に出て行くプラットフォームとなることを目差しています。」と趣旨説明(部分)にあるように、もっと「相互作用」の中で学びあう、特別な場なのだと思う。
→ 「牧会塾HP」はこちら
今日、事務局から宣伝パンフが郵送されてきた。添えられた手紙には、3月19日時点での、
私のクラスの申込者は、16名。先着順20名のクラスなので、あと4名。(ご検討中の方は、そろそろお急ぎを!)
ちなみに第1回目のクラスは、4月15日(木)10:00〜です。
それとクラスでテキストに使う「映画」もそろそろ決めなくてはいけない。
邦画の『雨あがる』かな。う〜ん、でも、最近、牧会ジャーナルに解説記事、書いちゃったしなぁ。
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講演DVD「宣教における〜」のブログ感想
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2010.03.24 Wednesday 20:39
講演DVD「宣教における〜」(太平洋放送協会)について、他の方々のブログ記事を読んでみる。
(青字は、他の方々のブログの文章からの引用)
なお、製品紹介のHPはこちら
→ 「女性の働き」(講演DVD)
私の裏舞台的コメント
「男性が聞いても十分参考になる。」
ありがとうございます。最初は「女性特有の」をどう入れるか、いろいろと考えましたが、最後は、男女共通の部分をきちんと扱うこと落ち着きました。
「スタジオで収録している講演だが、カメラ側で話を聞いていると思われる女性の笑い声がときたま聞こえる。」
収録は、お茶の水のスタジオでした。まったく無人の空間に話しかけるのも酷だろうということで、3人の女性がスタジオの片隅に座って講演を聞いてく
ださいました。収録場面では、「間合い」で笑いを誘ったように思います。話している私は、聞きなおしたとき、笑いのタイミングは了解できるものでした。
→ 講演DVD「宣教における女性の働き」を見て。
私の裏舞台的コメント
「青年期に、周囲から求められ、また自分で選び取ってきた男性像/女性像に対し、
中年期(成熟期)には、切り捨ててきた異性像を取り戻し、統合する作業があるのでしょう。」
的確な要約です。ユングが「内なる異性」といった時代に比べ、現代社会は、性役割が弱くなってきていることなどから、私自身は「もう一人の私」という表現を使うことが多いのですが、この講演では、与えられたテーマもありましたし、ほかに「男女」を対比する個所もなかったので、あえて男性性、女性性という原点の言い方で話してみました。
「境界性パーソナリティー障害という心の病についての話です。
この病について、教会のみなさんで情報の共有ができているか、いないか、で雲泥の差が生まれると
思います。」
ここも講演の伝えたいポイントを的確にとらえていただいてます。
ちなみに、病としての「境界性パーソナリティ障害」の「境界」は、歴史的な由来で名づけられています。その昔、精神医学では、統合失調症と神経症の2つの病気の鑑別が重要な仕事であったわけですが、ある時期、どうも、この2つの境目の病気があるという報告がなされました(境界例と呼ばれました)。そして、その後の臨床や研究で、実はこの病気は、境目の病気でなく、まったく別の独立した病気だということになり、パーソナリティ障害という概念がデビューしました。
ですので、このときの「境界」は、ボーダーラインなんです。人間関係で境界を明確にしましょうという場合の境界は、バウンダリーで、まったく違うんですね。(ちょっとミニ講義ふう) -
「犯罪・非行とコラージュ療法」
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2010.03.24 Wednesday 16:45コラージュ療法とは、雑誌やパンフレットなどの既存の印刷物を自由に切り取り、台紙に思いつくままに貼り付けていく描画技法である。「コラージュ」という名前は、「糊で貼る」(coller)という意味のフランス語に由来し、元々20世紀初頭に誕生した美術技法を心理療法に適用したものである。日本では1987年に森谷が箱庭療法から着想し、以後、本格的な導入、展開がはかられている。
犯罪・非行臨床におけるコラージュ療法の特徴として、美的満足感を味わえることが容易であり、自己表現に際して負担感が少ないことがあげられる。一般のアートセラピーが、いわば砂場遊びやお絵描き遊びの幼児になることを誘うのに対して、コラージュの場合は、大人の美術家になれる魅力がある。 - ←back 1/5 pages next→