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平成最後の日に思うこと
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2019.04.30 Tuesday 14:43平成から新しい元号に変わる。あらためて皇室報道の凄さを感じた。 私は天皇制には距離をとっているというか疑問に思っている。 が、ひょんなことから皇室の日常情報に触れることになり、それ以降その人柄に親しみを感じたりした。露出度というか、情報量というか、そうした要素は軽視できない。 さて、ここで今回書こうと思うのは、なぜ人々は皇族を支持し、好むのかということである。 まず第一に権威やそれに由来する儀式を人々が求めているからである。これらは、魂の区切り、魂のマネジメントのためには必要としているが、日本の現代社会は、こうしたものが不足している。キリスト教界もあまりそれらを与えくれない。最近の改元報道は、日本人に自分たちにも権威や儀式があるのであるという意味のメッセージを伝えているのである。 こうなると、かつてヨーロッパで異教の太陽神のお祭りをクリスマスに仕立て直したように、天皇神道からパクることも選択肢のひとつか。 第二に、皇族は「甘え・へたり込み」型の模範を見せてくれる。英国ではタブロイド報道で王族がぼろぼろにされているが、あれは「背伸び・強行突破」型の典型である。前者は病気に、後者は問題行動に出ることになる。たとえば失声症や適応障害の日本の皇族は、同情をかい、親和の対象となる。不倫やトラブルは英国の王族は、批判の対象となる。個の弱い日本人は内にこもっていき、最後は帰属集団に受け入れてもらうことだ。かわいげがある、あるいは人柄が良いという評価がつきまとう。逆に欧米人は個が強いので、王族であろうとなかろうと個をそとにぶつけていく。 こう考えてみると、皇族にクリスチャンが生まれ(カソリックの信仰をもっていると聞いた)、ヒーロー、ヒロインとして大胆な皇室改革をすることはないな。 第三に、皇族の家族問題である。報道される情報が適度にリアルで、予想通りに、夫婦葛藤やきょうだい葛藤が見え隠れしているが、それらを品良く表現している。このように家族問題も、国民の象徴として機能している。雲の上の人たちの物語でなく、味わうことができる。 できるものなら昭和天皇か平成天皇を主人公にした家族の物語をNHK大河ドラマにしてくれる人はいないか。
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ニーバーの「ユーモア論」
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2019.04.24 Wednesday 10:44
かつて、ニーバーの論考を私が引用、要約、紹介した記事をこのブログに書いたことがある。
私の論考でなく、ニーバーのものであることを念のため確認しておきたい。
▲2007年のブログ記事。
・・・・・・・・・・・
昨晩、ニーバーという神学者がかいた「アメリカ史とアイロニー」を読み始めた。なにやら難しそうなので、最初にまず付録「ユーモアと信仰」から読む。けっこうこれはおもしろかった。
彼は笑いは信仰の入り口だという。緻密な論理が展開されているが、私なりに要約すると、ユーモアのセンスは、自分を超える高みから自分を見おろす能力によっており、自分がとるに足らない存在であり、自分の欠点や思い上がりによっていささかの滑稽さを感じることに拠っている。そういう意味で、自分自身を笑うことができる能力は、悔い改めの感覚への序曲になる。ただし、序曲であり、笑いだけでは、自己の罪の問題を究極の仕方で取り扱うことはできない。序曲の先に進むと、今度は笑いはない。純粋な悔い改めの中には、笑いがなくなる。それはさらなる次元(神の裁きの感覚)が存在するからだ。
「笑いは神殿の前庭にある。そして神殿それ自体の中にその笑いの反響がある。しかし、至聖所の中にあるのは、笑いではない。それはただ信仰と祈りだけなのである。」(ニーバー、287頁)▲上記をさらに簡略化した記事(2013年)
・・・・・・・・・・・・・・・
アメリカの神学者・ニーバーは、「笑いは信仰の入り口」だという。ユーモアのセンスは、自分を超える高みから自分を見おろすことで生まれる。自分がとるに足らない存在であり、自分の欠点や思い上がりを観ることができるからこそ、いささかの滑稽さを感じるのである
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ニーバーの「ユーモア論」
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2019.04.24 Wednesday 10:42
かつて、ニーバーの論考を私が引用、要約、紹介した記事をこのブログに書いたことがある。
私の論考でなく、ニーバーのものであることを念のため確認しておきたい。
▲2007年のブログ記事。
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昨晩、ニーバーという神学者がかいた「アメリカ史とアイロニー」を読み始めた。なにやら難しそうなので、最初にまず付録「ユーモアと信仰」から読む。けっこうこれはおもしろかった。
彼は笑いは信仰の入り口だという。緻密な論理が展開されているが、私なりに要約すると、ユーモアのセンスは、自分を超える高みから自分を見おろす能力によっており、自分がとるに足らない存在であり、自分の欠点や思い上がりによっていささかの滑稽さを感じることに拠っている。そういう意味で、自分自身を笑うことができる能力は、悔い改めの感覚への序曲になる。ただし、序曲であり、笑いだけでは、自己の罪の問題を究極の仕方で取り扱うことはできない。序曲の先に進むと、今度は笑いはない。純粋な悔い改めの中には、笑いがなくなる。それはさらなる次元(神の裁きの感覚)が存在するからだ。
「笑いは神殿の前庭にある。そして神殿それ自体の中にその笑いの反響がある。しかし、至聖所の中にあるのは、笑いではない。それはただ信仰と祈りだけなのである。」(ニーバー、287頁)▲上記をさらに簡略化した記事(2013年)
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アメリカの神学者・ニーバーは、「笑いは信仰の入り口」だという。ユーモアのセンスは、自分を超える高みから自分を見おろすことで生まれる。自分がとるに足らない存在であり、自分の欠点や思い上がりを観ることができるからこそ、いささかの滑稽さを感じるのである
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キリスト教カウンセリング本に求められている特徴5つ
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2019.04.21 Sunday 16:18
「キリスト教カウンセリング本(かなり広い意味で)の、求められている特徴」をつらつら考えてみた。
1つめは、本のボリュームが少ないこと。一つのテーマがコンパクトに扱われていること。
2つめは、朝読んで「新しい一日も頑張るぞ」と鼓舞するものよりも,夜読んで静かな気持ちで振り返るものがよい。
3つめは、もっとがばれるはずだと積極思考を促すものでなく、頑張りすぎてはいないかと建て前を問い返すものがよい。
4つめは、クリスチャンが読んでも、そうでない人が読んでもよいものがよい。たとえばクリスチャンがノンクリスチャンに嬉々としてプレゼントすることができる本。
5つめは、1人で読むだけで無く、グループや2人で読み合うことができるものがよい。
ここまで考えてみると、「こころの深呼吸」(教文館)は、1〜4までは完璧に対応している。あらためてすごいと思う。
1についていえば、ツイッター世代の人は、コンパクトな提示の仕方はお手の物だと思う。
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大学図書館は攻めている。〜わせとしょ探検隊
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2019.04.20 Saturday 21:05
大学図書館は攻めている。
知のアイデアが続々出てくる。
私の好みで言うと、新しい制度やプログラムよりも、案外アナログな体験記のようなものが当たると面白いと思っている。
と思っていたら、早稲田大学図書館のルポものが目に飛び込んできた。
【わせとしょ探検隊!】(第13回 本と言葉と春の空−季節を彩る...)のスタッフ(学生?)が今回は「天気」について調べていくという趣向である。
まず「天気」に関する資料を検索する。その結果、『半井小絵のお天気彩時記』という書籍を発見する。
スタッフはここで検索を離れ、実際に書架に出向いていく。
「手に取った本から思いがけない情報を得ることができる体験」に読者を誘う。
まず大学図書館の3階の「気象学」の棚(451)を見に行く。お目当ての『半井小絵のお天気彩時記』を開いて、イラストを用いた楽しい本であることを体感する。
ここからがこの報告の優れたところで、「気象学」の本を見ていくのだが、途中で「歳時記」に替えて調べ直したり、歳時記には雨の言葉が追いことに気づき、今度は「雨の名前」を調べていく。そして最後の最後に「雨〜文学上」の件名が振られている唯一の資料、『雨降りの心理学 : 雨が心を動かすとき』(910.2)を手に取るのだ。調べながら、スタートは検索などを冷静に行うが、途中からアイデアがわいてきて多少の飛躍を交えながら試行錯誤的に進んでいく。論文の構想も、人生の展開も、そこは通底している。
「910.2」は日本文学史の分類だそうだ。報告者も「天気から日本語、そして雨を調べるうちに、ついに日本文学に辿り着きました。探していた『雨降りの心理学』を手に取ってみると、様々な文学作品などにおいて、雨がどのように扱われ、心の動きを効果的に描写しているのかということが解説されています。」(【わせとしょ体験隊!】第13回、早稲田大学図書館HP、2019,4,15からの引用)
繰り返しになるが、体験隊が試行錯誤的、探索的にアプローチしていることに好感を持った。そういえば「雨降りの心理学」を書くには、その何百倍も試行錯誤し、幾通りもの探索の道を行ったり来たりしたのであるが、著者として、読者にもそうしたみちすじを探索する感覚を味わって欲しいとおもっている。
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新刊、ネットで出始める
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2019.04.20 Saturday 06:16
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説教者との対話
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2019.04.14 Sunday 21:02
昨晩、ひょんなことから藤本満牧師の説教を(ネットにテープ起こししたものがアップされているので)読み返してみた。
もちろん全部ではない。検索をして、私の著作をかなり大きめに引用、コメントしてくださっているものに限定して読んだのである。
検索では、「一六時四〇分」が2、「雨降りの心理学」が1であった。
「神にゆだねる」というタイトルの説教は、雨降りの心理学の中の「風雨図」という小説を選び、
その著者(私)による分析を紹介している。しかしそれで終わっていない。本ではあくまでも人の心理を扱っている。説教では、自然と霊的な意味づけを加えていて、いっそう深いと思わされた。
かねがね私の論考は、心理的な側面からのアプローチであり、霊的な側面は読者に委ねている。
「ありのままの自分を生きる」の「はじめに」では、次のように書いた。
「私たちの抱える問題に、信仰的側面と心理的側面があるとすれば、あくまでも後者の視点から、何が見え、何が教訓として得られるのか、そしてそれが知的な理解以上に深いものにつながっていく可能性がどのようにあるのか」、そのあたりをこだわっていると書いた。そして深いもの(信仰的側面)については、神学の専門家なり牧会者の知恵をお借りしたいと考えている。
ここで「風雨図」について述べるなら、主人公の小説家が、都心から郊外の温泉旅館に執筆のために移動する。しかし折からの台風の接近で、土砂降りの雨のなかをずぶ濡れになりながら旅館目指して強行していく物語である。
藤本満牧師は、信仰者が神に委ねる,委ねられない、といった問題のひとつに強行突破の生き方をとりあげてくださった。そして、この「風雨図」の物語で、主人公が東屋で出会った老婆に注目している。著者(私)は、強行している人は、自己万能感をたかめ、他人に鈍感になっていると指摘する。しかし、ここで藤本牧師は、その老婆のことを神さまが主人公を助けるために送った人かもしれない、そしてその老婆はイエスキリストであったかもしれないと語ってくださった。
なるほど強行している人は他人に鈍感になる。その際、心理的ばかりだけでなく霊的にも鈍感になるのだろう。そして強行がうまくいかず、絶望のただ中にいるときでも、実はその人のごく身近にイエスはおられ、助けようかと手をさしのべていてくださる。そんなことがくみ取れる。
このように説教に、心理士の著作を真剣に引用してくださる説教者は、心理学が教会のために何をしたら良いのか、何を目指していけば良いのかを、簡潔に教えてくれる。説教者と語り合って、両者(心理と信仰)のつなぎ目を点検し、深く学んでみたい。
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近刊「真実の自分と向き合う」
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2019.04.12 Friday 13:12
いのちのことば社、1,200+税。奥付が5月下旬発行になっていますが、もうすこし早く書店に並ぶかも。
クリスチャン福音版6月号巻頭メッセージで、この本の寸言のひとつ「夕方から始まる物語」が詳しく紹介される予定です。
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あとあと振り返ったとき
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2019.04.08 Monday 20:39
今日はとある応接室で、本の企画のようなうち合わせのときを持った。
くわしくは書けないが、3人それぞれの立場から短い時間、短い言葉で協議した。
そして、これで行こうと決めた。
あとあと振り返ると、今日のこのうち合わせが、大きな節目の日として思い返されるのか。
不思議な心境だ。夏が終わらないうちに種明かしとなれば良いな。
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写真の話
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2019.04.06 Saturday 23:31
今度出る本(5月)は、実は挿絵のように私の写真を使っている。
昔「百万人の福音」という月刊誌に14回連載した際は、ある少年院の下駄箱や在院者の作成物を撮影したものを使ってもらった。
当時はまだフィルム写真であったが、撮影の面白さにはまっていた。このころがわたしの写真のピーク。
少年院では、少年の顔を出すわけにはいかず、器物を撮影するなかで、人の気配を感じるものを目指した。人の生き方の比喩として「光と影」の表現も多くなった。
比較的最近では、「十六時四〇分」という闘病記で、やはり全写真、私の撮影した作品を使ってもらった。
今回が3度目で、比較的最近撮影し、このブログに発表したものが多い。
ほとんどが職場からの帰り道に撮影したもので、上の写真は職場の最寄り駅近くの壁?、中の写真は大型スーパー閉店後の階段、下が自宅近くのショッピングモールのテーブルと椅子。
今回使ってもらったたくさんの写真をあえて例えるなら、ちょうど森の中に入っていく、あるいはビルの森に入っていく、そのうちにあたりがくらくなり、内省と発見の世界に辿り着く。そしてそれがワークショップ講師としての現実につながっていく。というストーリーを勝手に思い描いた。
といっても読者の目には暗い無機質な写真のオンパレードに映るかも知れない。
そこは圧倒的な私の限界。仕方が無いな。
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