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瀧口先生との対談講演会。あと3週間。
2020.01.31 Friday 23:31

 

 

人生は出会いに満ちています。

 

キリスト教との出会い

心理臨床との出会い

師との出会い

そして病気との出会い

 

いろいろな出会いをひもといて

人生の物語をあじわうひとときとしたいと思います。

 

テーマは、二人の心理臨床家が語る「闘病とメンタルヘルス」

 

最初に20分、藤掛が話し、ついで30分瀧口(滝口)俊子先生が話し、

そこから自由に二人の対談をする予定です。

 

二人の共通する点があります。

中学生時代に教会へ。

就職は心理臨床の実務へ

恩師に大きな影響を受け(藤→平山正実。滝→河合隼雄)

途中から大学教員。

キリスト教の指導者との対談本を出している。

そして大きな病を複数背負いながらも、職業生活を続けている。

 

だからこそ聞いてみたいこともいろいろあります。

 

2/20、午後2時半から。聖学院大学教授会室

 

https://www.seigresearch.jp/event/2019%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%902020220/

 

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ささいな変化が
2020.01.17 Friday 22:47

 

最近、ささいな、大変化が続く。

 

バス停を変えてみた。

眼科医をここに来て、変えた。

床屋も変えた。

眼科医も、床屋も、私が50歳のとき、がんの闘病のスタート時に偶然にもお世話になったのであるが、

変えてみた。

最後の変化は、ウインドウ7マシンをウインドウ10に変えたこと。それが2台もある

 

今年は大変化の年の予感がする。

 

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対談本「心の井戸を深く掘る」に寄せられた感想の感想
2020.01.11 Saturday 17:22

<おふ受賞会場にて>

 

 

「心の井戸を深く掘る」という対談本について、多くの感想をいただいた。
ここではいただいた感想に対する感想を述べてみようと思う。

 

(1)あるご婦人が、「この本は難しい」と述べられた。

おそらく「難しい」というよりも「すっきりせず、もやもやする」「読みにくさがある」ということだろうと思う。対談の内容が論理的、客観的、普遍的でなく、教科書のように、あるいは良質な解説書のように読むと、期待を裏切られた気がする人もいるだろう。

 

(2)ある人たちは、「この対談本は、繰り返し読む」と述べられた。

あるときは、発言のおもしろい指摘に、うなづくが、しかし理論的体系的にまとまらないために、もう一回読むことになる。
またあるときは、三人の発言が意外なほどマイペースで、論理的に絡んでいないと感じ、
そこで、もう一回読むことになる。
さらにあるときは、三人が同じ空気の居心地の良い世界に身を置き、共有しているところが面白いと思う。そして読者が四人目の座談者としてその同じ世界に身を置く。そうなるとこの本を最初に読もうと思った目的と違ってくるように思え、また読んでみることになる。
いずれにしろ、読み直していただくというのはありがたいと思う。
もっとも私が一人で書く文章はそうはいかない。
30代、40代のころに一度ずつ、プロの編集者(教育雑誌、心理図書)から同じ指導を受けたことがある。「文章が読みやすい。書いてあることがわかりやすい。それはそれでいいかもしれないが致命的な欠点がある。それは多くの人が二度読もうと思わないことだ。」と。


(3)久保木先生からは、いろいろな事情をひととおり見渡したうえで、司会の問いかけに対談者が対応していない点について、述べられた。

「最終章になって書くのもなんですが、実はこの本、質問を出し編集している谷口さんの質問、問題意識が結構鋭いのです。で、坂野先生と藤掛先生に生意気なことを言うようで大変申し訳ないのですが、谷口さんの質問がお二人のしゃべる契機にはなっているものの、とりわけ最終章は、谷口さんの根底にある問題意識に対しての答えになっているのかなぁという思いがしています。」と端的に指摘していただいた。申し訳ないどころか大変ありがたい。

実は私は、久保木先生の文章を読むまでは、そのことに気がつかなかった(苦笑)。そもそも谷口さんが司会ということにもある時期まで気がつかなかった。「司会」というと語弊があるが、「司会のようなもの」を務めているのは私だと思っていたからだ。その証拠に、対談のはじめの部分(11p)も、終わりのしめ(175pくらいから)もいかにもそういう役割を果たすべく私が発言していることがわかる。
今は、久保木先生の文章を読んだおかげで,司会者が問いかけて,それに即応していない対談者という見方は理解できるし、同様の趣旨の感想を他の方からもいただいたのでわかるのであるが、それまではあまり考えなかった。

また問いかけに対してリニアに回答することは、あまり眼中になく、問いかけに答えるというより、問いかけによりくすぐられたものを表現するといった感じであった。もっとも久保木先生は、そうしたこともお見通しで「しゃべる契機にはなっているものの」と触れている。まとめようというより、自分のあるものを引き出してもらおうという受動性が高まっていたのだと思う。

あらかじめ仮説や体系があるわけでないため、対談を重ねるにつれ、話題が広がっていった。谷口さんが全部の対談を終えたとき、「毎回、新しいことが語られ、同じ話が繰り返えされなかった。驚きました。」と。考えてみると、谷口さんは回を重ねるたびに、能動性を高めていったのではないかと、そのご苦労とセンスを思う。最終章は、プロ野球のトライアウトのように、記事に使われるか、テープに起こされたままで終わるか、話のネタたちがギリギリのアピールをしている。そこでの谷口さんの采配も見事である。

 

(4)坂野牧師ファンの人たちからは、さらなる坂野本を企画できないかと問いかけられる。

それはいろいろある。1番読んでみたいのは、説教を牧会の中心としてとらえ、牧会の一部としての説教のあり方について、ざっくばらんにうかがってみたい。本質的な事柄だけでなく、ハウツーのようなものまで、とことん。たぶん、こうしたテーマで、お話しはされていると思う。そうした講義を起こすことで、実現可能性はあるように思うのだが。

 

(5)雑感

この対談本は、スリッパ拭きの比喩で始めた。
掃除の参加者は椅子に座って円座を作っていた。
しかし、その円座は適度にゆがむことでちょうど良い人数が参加できていた。
特別に参加者が多いときにも、特別にゆがむことで参加できてしまう。
座った私からすると円座がゆがんだ分だけ、正対できず、こちらからすると、ある人は横顔しかみえず、ある人は後ろ頭だけ見える。全体で話すことも、ここかしこで小さい部分で話すこともある。しかし語らいはときめくほど楽しい。

進行役はいなかった。あえていえば多くの人が適度に自分が進行役だと思いながら、
座っていたように思うのである。

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闘病とメンタルヘルス
2020.01.10 Friday 01:18

聖学院大学総合研究所の主催で、第4回キリスト教カウンセリング講演会を開催する。

第1回は、香山リカさん、第2回は、晴佐久神父、第3回が、久米小百合さん。そして4回が、

瀧口俊子先生。そして私も登壇させていただく。

瀧口先生は心理臨床の世界ではあまりにも有名な方である。10代のころに受洗し、心理臨床の道に進んだことや、働き盛りの最中に複数の大病を負ったことなどは不思議なくらい私と合致する。また宗教家と心理臨床家の対談ものも出しており、そこも一緒だ。

今回の後半は瀧口先生と私の自由な対談スタイルになる。

もしかしたら貴重な講演+対談になるのかもしれない。

 

 

2月20日(木)14:30-。会場は聖学院大学。

詳しくは→こちら

 

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「隣に座って」を読んで
2020.01.10 Friday 00:35

中村佐知さんの「隣に座って」を読んで。

 

本書は心の揺れも、絶望も、信仰による希望も、リアルに同時に語られる。
普通なら希望や奇跡だけを望んだり、逆に絶望や現実だけに圧倒されたり、とかく一定の方向に針が振れがちになるのだが、それがない。そして、どれもこれも心の奥底からの吐露なのである。

 

私は中村さんのブログの看病記をもともとリアルタイムで読んでいたが、途中から「まとめ読み」ないしは「飛ばし読み」に変化した。なぜならブログへ寄せられる多数のコメントが奇跡的な癒しを期待する熱気に満ちていたからである。それは自然なことであり、良いことでもある。

私はひとつひとつのコメントに熱気を感じた。これは中村さんの受けとめ方ひとつであるのだが、場合によっては、コメントが現実を度外視した積極思考を迫ったり、逆に神の摂理を強調した諦念を突きつけたりすることがあるのではないかと気にした。

 

しかしこれは杞憂であった。本書にもこう記されている。

「本当にそうだ。どんな命も、この地上での長さにかかわらず、神様から与えられた使命があるのだ。しかしだからといって、癒やしを求めるのをやめようとも思わない。医学的に見て難しいからといって、癒やされないと決めつける必要はないはずだ。私の友人たちの多くも、あえて奇跡を求めて大胆に祈ってくださっている。」182p

 

このような二律背反の世界を受け止める中で、中村さんの祈りのフォーカスも
「癒やしそのものよりも」娘さんの痛みが抑えられ、朝ごとに新しい神様の恵みとあわれみの中で平安の内に過ごせるように。また、この試練の中でも神様からのギフトのひとつひとつに気づき、目を留め、感動し、感謝でできるように。また、娘さんの家族や友人との時間が祝されるように。また今回のことを通して神様のご栄光が表されますように。といったことにシフトしていったという。

成熟した魂の叫びは、美しささえ感じさせる。

 

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闘病記を書く、闘病記を読む
2020.01.06 Monday 23:04

 

闘病記を書く、闘病記を読む

 

今日は、2020年度のシラバス(授業計画など)を書いた。大学院の「臨床死生学」科目のシラバスを書いているとき、闘病記にまつわる授業を用意していた時期があったなと思い返した。
中村佐知さんの看病記を最近読んだことも影響しているのかもしれない。しばらく闘病記、看病記の世界に浸った。(中村さんの看病記についての感想は稿を新たにかきたいと思う)

 

闘病記というのは存在感がある。
今私はかなり昔に書かれた信仰者の闘病記を二冊持っている。
他の書籍同様処分をしようと思うのだが、どうもそれができない。
闘病記には独特の存在感があり、読者を揺さぶり、心の深みへと導いてくれる力がある。
だから簡単には捨てられない。

綿々と闘病記は書かれているが、その多様な世界に接する際に、私が着眼していることについて書き留めておきたいと思う。
そして、昔と今とでは微妙に闘病記に描かれる世界が違うように思う。
最近の闘病記の特別な性質のようなものについてもあわせて書き留めておきたい。

 

(1)闘病記か看病記か。
患者として自分の余命を懸命に生きる姿と、
家族や友人として大切な人を失うかもしれないという思いに直面していく姿とは、
かなり違う世界である。前者は極限の生を見つめ、後者は極限の死を見つめているように思える。看病記は実は物語の序章にすぎず、その後に(発表されるかどうかは別にして)グリーフワークの追悼記が続くのである。

 

(2)現在進行形か、過去形か。
昔の書籍化された闘病記(や看病記)は基本過去形であった。
現在進行形のように回顧するとしても、本質は過去形であった。
過去形は、教訓や解釈がきれいにまとめられる傾向にあり、著者の思いが説得力をもって伝わってくる。
一方で現在進行形は、これからこうなるかもしれないし、こうならないかもしれないという揺れや雑念が激しく混入してくる。そしてそれはどれもこれも真実な心の叫びになっている。奇跡的に治癒してほしいという思いも、医学的に病状を冷静に把握することも、同時に進んでいく。二律背反の世界だ。
そしてブログなどの普及により現在進行形の闘病記の時代がやってきたのである。揺れや雑念があればあるほど作者の叫びの真実が際立ってくる。

 

(3)医療者の判断か、患者の判断か
医療自体も、患者としての主体性が求められる時代になった。告知なども定着し、治療の選択肢も患者や看病者が個性を発揮し、選ぶ余地が増大した。自らの応答を示さなくてはならなくなったことで、大変な判断をすることになったし、闘病記も看病記も個々に応じて、かなり多様化した。

 

もしかしたら続く。

 

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2020 謹賀新年/2019を振り返って
2020.01.03 Friday 21:46

 

 

昨年は7月に一瞬体調が悪化した時期があってびっくりした。

そして12月初旬からまた下降が始まり、会議日を2回にわたって欠席した。

その後も不調感は続き、とうとう正月に突入してしまった。

 

例年、12月の下旬にその一年を振り返ってみるのだが、

今回は年を越えてから振り返ってみる。

 

 

2019年の個人重大ニュース

 

(1位)高齢の母の在宅介護を始める。
介護は突然始まる、という。まさに私とわが家の場合もそれは突然始まった。同じ市内に住み、元気に一人ぐらしをしていた母が、2018年秋から転倒が幾度が続き、入院となった。母の年齢(当時91歳)を考えれば「突然」とはいわないが、感覚は突然だった。母は病院を退院後、とりあえず医療ケア付きの老人ホームに身を寄せ、自宅への帰住を待ち焦がれた。わが家としは、妻側のご両親の介護の必要も進行しており、特に義母が入退院を繰り返していた。家内の体調も不良がちであった。結果的に3月22日にまず私が先兵隊といて母の帰住と同時に実家に介護目的で同居した。そしてタイミング悪く義母が入院したことで、私も妻もそれぞれに自分の母のケアを担当するようなかたちになった。(実際には妻が私のほうのサポートをしてくれるので大変である)
  介護といっても、私の場合は3食作ること、週1回ペースで歯医者と整骨院につれていくことが大きな役割である。他にも母はたくさんの病院にかかってたが、それは主に妹が担ってくれている。
3食作るのは基本的にやれる自信があった。ところが実際にやってみると、歯に負担のかかるものは食べられないし、週に2回は夜に授業や会議が入るので、朝にその日の3食分を一気に作る必要があり、ハードなときもある。
  母が夜中トイレに起きたとき、私がパソコンに向かっていると、往年の厳しかったころの母の姿になって「なにおそくまで仕事をしているの。からだと仕事とどっちが大事だと思っているのよ。寝なさい」と渾身の叱責が飛んでくる。
今はデイサービスを週2回利用している。感謝なことに自宅介護スタート時は介護4級だったが、2019年秋には、介護1級までに回復した。

(2位)闘病が続く。
「悪性リンパ腫」「筋肉がスムーズに動かない難病」「緑内障を初めとする眼の不調感」はビッグ3であるが、どれも手ごわい。治療や入院には、時がある。短期計画も長期計画も立てずらい二律背反の世界が続く。そういえば番外で2019年1月に、インフルエンザにかかった。

(3位)本や原稿を書く。
2019年は基本的に本を書くエネルギーはなかった。ところが過去の記事を再編集するかたちで本を出せたのは不思議な経験であった。「真実の自分と向き合う」(単著、いのちのことば社)。「心の井戸を深く掘る」(坂野牧師との対談、地引網出版)の2冊である。ついでに不思議な経験を書いておくと、「真実の〜」の何らかの影響であると思うのだが、6月のとある日、個人ブログのアクセスが一日に1万7千件を越えたことがあった。普段は、2千件を越えるとすごいことで、更新をしなくなると、3百から5百件で落ち着く。

(4位)外部の講演、講義は大胆な縮小

病気の症状を考慮して毎年縮小しているので、いまはそうはない。

この時点で、3月までで気になっているのは、

■2月の対談講演「二人の心理臨床家が語る闘病とメンタルヘルス」

 滝口俊子先生と私。会場;聖学院大学

■3月の講演会とパネルディスカッション

 「援助者のメンタルヘルス」青山学院大学チャプレンの研修会。

(5位)

日めくりカレンダーや、コラージュ動画講座などの通信販売などを、2019年春を意識して準備してきたが、

いったん延期とた。いまは2020年春ないしは秋に再挑戦を考えている。

以上。

 

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藤掛 明
雨の心理的イメージを鍵に、雨の降る物語を読み解く。カウンセリング論であり、人生論でもある。
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