
2009年、個人BEST 5
年間を通して、この1年を象徴するブログ記事として、
「この壁の向こうに」(5月16日)をあげたい。
さて、ランキング…
第1位:闘病生活・入退院
4月下旬から始まった通院、諸検査。そして4回の入退院。8月下旬からの集中的な治療と副作用。とくに9月は、予定にはなかったのに、発熱により緊急入院したため、京都の学会でのシンポ登壇1本、札幌での連続講演4本を突然キャンセル。(もちろん早々の事前のキャンセルはさらに多く)激動の闘病の一年だった。
年頭に「休暇気分」を掲げたが、結果的には「休養気分」となった。また今年1月のDOコラージュのなかで、イカが墨をはいて逃げる姿を貼ったが、まさにそうしたことが起こった感じがする。
第2位:教会向け単著本を初の上梓
「ありのままの自分を生きる」(一麦出版社)を5月下旬に。初版が年内に売り切れなかったのをやや心配していたが、出版社からはそろそろ2刷りのための、誤字など微修正の要請をここにきて受けて、すこしほっとした。
出版に類したことでは、ほかに(1)私の講演DVD(太平洋放送協会)が年明けに発売される予定であり、これも初体験で、非常にどきどきしている。(2)このブログでもたびたび掲載したが、「雨の降る物語の秘密」原稿が5月に脱稿した。しかし、フリーの担当編集者があてのあった一般出版社の新書本で出す見込みであったが、不成立に。これからこの原稿をどうするか思案のしどころ。良い内容なのだがなぁ…。
第3位:各種研修会・セミナーの講師
今年の新しい試みとして、コラージュの10回連続講座。福岡(2日)、横浜、京都での、コラージュ・セミナー。また秋の治療中にも、「牧会塾」のクラス、県民活動センターの講座などを担当した。ネタやワザも年とともに増えてきた?
第4位:病院心療内科付設の心理相談室の事例協議コメンター
4月から、賀来周一先生の後任として月に一度、うかがった。やりがいのある素晴らしい役だったが、秋からは治療のため一時離脱中。来年1月から復帰を目指している。
第5位:様々な映画、ドラマを見る
とくに韓国ドラマ「魔王」(ジフンの薬物問題を含む)、「チャングムの誓い」はコミットした。
そこで、来年は、パーソナリティ障害の連続線上にある、健康度の高い、適応的な姿も、取り上げていきたいと考えている。
たとえば「強迫性パーソナリティ(人格)障害」。強迫性があって、潔癖で、頑固で、自分の価値観を押しつけて…などと否定的な面をあげられる。
映画でいえば「恋愛小説家」の主人公は、なかなか病理生のある強迫性を見せてくれた。
しかし、これが、健康度があがり、個性としての強迫性になると、様相が異なってくる。
筋を通す。働き者。愚痴を言わない。責任感が強い。
このような姿を映画(ドラマ)で示すなら「チャングムの誓い」のチャングムがまさにそうだと思う。
…そこまで妥協しないのか、そこまで完璧なものを目指すのか、そこまで事を荒立ててしまうのか。そうした特徴は、強迫性の反映として理解できる。
「恋愛小説家」と「チャングムの誓い」を続けてテキストに使うと、またずいぶんと、受け止め方が違ってくるであろう。

映画「センター・オブ・ジ・アース」(アメリカ、2008年)
ジュール・ヴェルヌ原作の有名な冒険SF小説「地底探検」の映画化。
公開時は3D映像が話題を呼んだ。
▼あらすじ…
地質学者のトレバー(ブレンダン・フレイザー)は、10年前に失踪した兄・マックス(やはり地質学者)の学説を証明しようとしていた。そして、兄の研究手帳の切れ端から、兄は、実は地底探検にかつて出発したことを知るのだったのだった。ひょんなことから、兄の息子(おい)とアイスランドに行き、現地スタッフのジョアンと3人で、地震調査装置を探す途中、洞窟の中で、地底世界への入り口を発見する。そして数々の困難を乗り越えて、地底にたどり着き、マックスの学説が正しいことを体験する。さらに、新たな困難を乗り越えて、地上への生還を果たすのであった。
私は、この有名な物語は、現代人の自己の世界(それも無意識といてもよいくらいの自覚しない自分の精神世界)を探求する姿に重なるものがあると思った。地底探検が、深い内面の探検のメタファになっているという視点だ。
(1)自己探検は、ゆきづまりの中で一気に動き出す。主人公は、大学を追放されかかっていたし、あいは、不安定な生活環境の中にあった。
(2)自己探検は、計画どおりには進まず、予期せぬ探検のなかで進む。また、おいがそうであったように、不思議な力(白い小鳥)に導かれることも起こる。
(3)自己探索は、目的の新しい世界(新しい自己発見)にたどり着いたら、元の世界に戻って来なければならない。すなわち地底から地上世界(常識的な社会生活)に戻らなければならない。
(4)地上世界に戻ると、新しい生き方、新しい関係性が身に付いている。もう探検時の奇跡は不要になる。おいの小鳥も彼の元を離れて飛び去っていったのだった。
(5)そして自己探索の作業は、語らい会う仲間とのなかで進んでいく。
考えてみると、地底探検が自己の深い内面世界への探求のメタファだとすると、宇宙旅行は、未知の世界に対処するスタイル、そしてタイムマシンは、過去の自分を納得し受け入れようとする探索を表しているのではないか。古典的SFや冒険談は、このような個人の生き方の基本がメタファとして重ねられているように思うのだ。
ひとつは「死と老化」のテーマである。
対応するエピソードをひとつあげるとすれば、2月、映画「おくりびと」のアカデミー賞での受賞であろうか。まだまだこのテーマは手つかずの未開の分野がかなりある。
ふたつは「婚活、離活」のテーマである。
今年、大きく報道された結婚詐欺事件なども、このテーマのひずみの部分であろう。これからも、切り口や言葉を次々と変えて、登場し続けるはずだ。
みっつは「シンプル・ライフ」のテーマである。
流行語大賞にもノミネートされた「業務仕分け人」。現代人にはメタファーになる。もっと生活を仕分けしなくてはと…。大企業の事業の縮小なども似た刺激がある。

今日は、大学院生の修士論文の発表会があった。
2年生は、あけて1月に論文を提出して、卒業していく。多くは社会人で、私より人生の先輩たちだ。彼ら、彼女らにとって論文作成という、新しいことに挑戦する心地はどのようなものであろうか。そもそも授業を取ることも久しぶりな経験であろう。さぞかし、新奇で不思議な体験であろう。
…そんなことを、26日のキャンパスで、真昼のクリスマスツリーを観ながら想っていた。
クリスマスの喜びが豊かにありますように。
特に今年は私にとって、闘病の年でしたが、ちょうど8月下旬から始まった集中的な治療が、今日で最終日を迎えました。多彩な副作用との戦いが18週間も続いてきましたので、これほどイブが印象的で、節目の日となったことはなかったと思います。イザヤ書の、受難のキリストの記述を思い起こし、慰められています。
本来の用件ではなかったが、偶然会った人と立ち話をしたり、一日中、次々といろいろな人と話した気がする。
ある人は、幼児教育のための新しいプログラムを熱心に語ってくれた。
私は、つい「人(幼児)を集めるのが難しいですよ」と水をさしてしまったが、後からじわじわと、でもやるならいろいろな工夫もできるし、おもしろいだろうなあ、私ならどうするだろうか、などと空想を広げた。
また、ある人は、私に、個人研究所のようなものを作って、研修や研究の委託を受けるような組織を提案してくれ、事務ボランティアで協力しますよ、と申し出てくれた。
私は、つい「いつかそういうときが来るといいですね」と受け流したが、後からじわじわと、でもやるなら、私の健康問題から逆算すると早めに着手しないといけないなあなどと具体的な展開方法をいくつか考えた。
… 結局明日になると忘れそうな話であるが、断片的ながら、青年のように、創業の夢を見つづけた気がする。そんな一日であった。
4,5人の参加者がそれに呼応し、貴重な体験談を話してくださった。…ところがお一人だけ、依存症とは無関係の事例を話され始めた。
その人いわく、「自分で決められない」「弱音をはいて甘えてくる」、つまり依存的な人だから報告した、ということであった。私の講義が説得力のないものだったのか、その人が最初から依存症に興味がなかったのか、定かではないが、非常に印象に残るエピソードであった。
依存症、あるいはプチ依存症の人(何かに、はまる人)は、実は他人に頼る姿勢が乏しいのである。いつも自分を頼り、自分の頑張りでとにかく乗り越えようとしている。独り立ちを目指しているといえば聞こえがよいが、非常に甘え下手で、不器用である。そして息切れが始まり、ぬかるみに足を取られそうになるなかで、自己充足の擬似的な世界を探し出してくる。それはギャンブルであったり、ダイエットであったり、旅行であったり、グルメや酒であったり、芸能であったり、趣味であったりする。そうして、はまるのである。
謙虚に人に頼り、適切に弱音を吐き、良い意味で開き直れるならば、依存症にはならない。依存的な人と、依存症的な人とは、かなり違うのである。

今日は、クリスマスの前の日曜日ということで、教会はクリスマス礼拝であった。
ルカ、15章8〜20節。羊飼いたちが天使から、キリストの誕生を告げられた場面だ。
羊飼いたちは、急いで、ヨハネとマリアと飼い葉桶に寝ていたみどりご(キリスト)を探し当たのであるが、私には、彼らが「駆けつけたこと」が印象に残った。大切なものには、駆けつける必要があるのだ。
実は今日、JR線の一部区間が工事のため不通で、その間はバスによる振り替え運転が行われていた。教会に行くにあたって、私には直接影響がなかったが、それでもダイヤが乱れたり、人が右往左往したり、間接的な影響があった。礼拝到着もいつもより遅くなった。「駆けつけた」感があったのだ。
礼拝の帰り。教会近くの「ウエンディーズ」に寄ろうと思った。年内撤退のハンバーガーのチェーン店で、「あんバーガー」(蜜月と別れ)をかつて扱っていたり、私には愛着がある。…ところが今日は、そこそこの列ができていた。ファンが駆けつけたのであろうか。ついでに寄ろうとした私は、駆けつけた人たちに敬意を表しながら、すぐに素通りしたのであった。

昨日は、一日、病院で定点観測のような検査を受けた。朝、自宅を出ると、業者が枝の剪定をやっていた。背の高い樹木は、職人さんが、クレーン車で一気に頂点まで駆けのぼる。冬支度の風物詩だ。

検査が終わり、最寄り駅に急ぎながら、ふと振り返ると、夕暮れ空に、巨大な雲が低く浮いていた。すごい存在感だった。
今は、クレーン車で一気に駆けあがるのでなく、あえて、しっかりとした足場(巨大な雲のような)を探したり、眺めたりすることが大切であるように思えてきた。うまく足場に足を置ければ、あとは、雲が孫悟空を運ぶように浮上してくれたりすることも…(笑)。
「空の上でストレスについて学ぶ」という記事だ。
富坂キリスト教センター編 「いやしから救いへ 心の病とその救い 2」という本を、飛行機の中で、久保木牧師が読んだという話。私のかつての共著本なのだが、ありがたいことに、帰りの飛行機では、私の担当章を読んでくださり、いろいろと感想を記してくださっている。(大変参考になります!)
その章では、信仰者のメンタルヘルスについて、その輪郭をスケッチするような気持ちで略述した。
実は、「キリスト教カウンセリング講座ブックレットのシリーズ」(キリスト新聞社)の一冊として、信仰者のメンタルヘルスのテーマの本を単著で書かなくてはならない。シリーズものなので最後の方で書ければいいやと思っていたが、いつのまにか2009年も終わりそうで、あと1年後くらいには書き上げねばまずいのではないかと少し思い始めてもいる。
この企画は、賀来先生からのお薦めで書くことにしたのだが、賀来先生と最近とんとお会いしていない。あわないと、なぜか遠い未来の話に思えてしまう。まるで小学生のような私。
おそらくテーマとしては、上記の本の担当章とまったくかぶるので、同じ内容を、20倍くらいの分量に広げて書くことになると思う。信仰者の気晴らし行動や、牧師の疲弊感などを、アンケートの統計処理を施して、その実態を「ほほぉう」という感じで提示する部分を追加する予定だ(あくまでも予定だ)。
出版のあかつきには、久保木牧師にも、飛行機・2往復くらいで、読んでいただけるものと思っている。

2009年、私が観た映画(DVD)、ベスト1。
「アドリブ・ナイト」(韓国、2006年)(日本での公開は、2008)に決定!
2008年ベスト1が、「私たちの幸せな時間」だったので、2年連続で韓国映画となった。
「春のワルツ」のハン・ヒョジュが主演。見知らぬダメで善意な青年たちに巻き込まれ、とんでもない「ナイト」を過ごすことになる物語。
そもそも、映画は原作にかなり忠実に作られている。しかし、最後の最後の場面でのヒロインの些細なセリフが異なり、映画のほうが、ヒロインの生育歴や現状の問題性を濃くしていて、より優れていると感じた。
しかし、平安寿子(たいら・あすこ)の「素晴らしい一日」(文春文庫、平氏の第一短編小説集、原作も収録)を読むと、平ワールドの特別な良さがみえてくる。そうなると、映画の最後のメリハリは、ないほうが良いようにも(だいぶたってからじわじわと)思えてきたりもしている。

また、平氏の他の小説群もあわせて読んでみることもお勧めしたい。駄目な男とかかわり、まともな女性が、しかし自分自身を深く振り返り、変わっていく物語は、実に現代的であり、深いテーマだと思う。
→映画「アドリブ・ナイト」の静かな感動 (04/10、2009)
→ダメな男と、しっかりした女 (04/24、2009)
多くのことを欧米のキリスト教界から影響を受け、取り入れてきた日本のキリスト教界であるが、牧会カウンセリングにおいては、なかなかそうはいかなかった。
そもそも日本には専門的な「カウンセリング」、職業としての「カウンセラー」を受け入れた歴史が浅い。定義の(2)などは、まねしたくてもまねしようがなかったといえる。
(ちなみに、臨床心理士制度スタートしたのは、1988年。しかし、いまだ国家資格には至らず。)
牧師以外の人材で、牧会カウンセリングについて影響を与えた専門家は、日本では医師であった。
赤星進、平山正実、柏木哲夫、工藤信夫ら諸先生は、教界むけの発言を行っているが、世俗の職業生活のなかで、信仰者としての問題意識、経験知を発信したものであった。
2.「キリスト教カウンセリング」という言葉の台頭
ここにきて、主体が牧師の場合を「牧会カウンセリング」、主体が一般信徒の場合を「キリスト教カウンセリング」と使い分けることが定着しつつある。また前者は、教会内の活動であるのに対して、後者は教会の内外の活動をさすことも特徴である。
このような言葉の使い分けには、背景がある。
それは、一般社会で、カウンセリングが普及し、市民向けのカウンセリング学習の講座などが開かれ、そこで一般信徒も学習し、地域のボランティア活動などに参加し始めたことが大きく影響したことだ。すなわち、信仰者としてのスタンスを持ちながら、一般のカウンセリングを学習し、活動しているアマチュアないしセミプロの職能集団が形成されつつあるということだ。
その象徴であるのは、キリスト教カウンセリングセンター(CCC)であり、そこで主催する研修プログラムであろう。
3.「キリスト教カウンセリング」と教会の職務
マタイ9:35。そこに「宣べ伝え」、「教え」、「いやす」と、3つがイエスのわざ(活動)に組み込まれている。これらを現代の教会は「伝道」、「教育」、「奉仕」として継承している。(聖書に用いられた「いやし」という言葉には、「仕えること、奉仕」という意味がある。)
教会の中には(外にも)、カウンセリングによる「いやし」のわざを必要としている事態が多々ある。しかも、信徒がこうしたことに積極的に貢献することで、教会の職務である奉仕のわざに参加していると考えられる。
言い換えれば、信徒が「伝道」のわざに参加するように、「牧会」の働きにも参加していることになる。牧会はどちらかといえば、教職者の独自な働きであるかの印象を持つが、「いやし」ということを考えれば、信徒もまた牧会に寄与する機会を十分に持つようになった。
このような観点から発言しているのは賀来周一先生である。実際に、牧師にとどまらず信徒へのカウンセリング学習・研修を提供している賀来先生ならではの説得力もある。
…つづく(たぶん)
授業の前半では、事例検討に入る前に、牧会カウンセリング、あるいはキリスト教カウンセリングとは何かという定義や歴史について簡単に講義した。
まず「ロテ職人の臨床心理学的Blog」 という著名なブログに、●牧会カウンセリングについての質問(2006,11,08)という記事と諸コメントがあったので、そこを紹介しながら、「牧会カウンセリング」のイメージを考えてみた。(ちなみに、このブログは、茶目っ気のある、そして実に正攻法の臨床家の息づかいを私は感じていて、月に一度くらい、斜め読みをしている。業界ではあまりに有名。)
キリスト教信仰(明確な価値観があり、また宗教という性質がある)と、世俗?の臨床心理学の方法がどのようにつながるのか。いっけんつながらない。だから逆に、いろいろなつなげ方をいろいろな人がしてみせるので、現場は、無秩序なまでに多種多彩になっている。
授業の再現ではないが、「牧会カウンセリング」と「キリスト教カウンセリング」の定義や最近の動向について、ここに触れておきたい。
歴史的には「牧会カウンセリング」という言葉が使われ、「キリスト教カウンセリング」という言葉は最近になってよく使われるようになってきた。
1.まず「牧会カウンセリング」。
牧師の信徒などに対する援助・配慮のあり方(牧会的配慮)が、20世紀に入って、精神分析をはじめとした諸心理療法の影響を受けた。本来の聖書的人間観に立脚しながら、その技法を援用して、「牧会カウンセリング」という新しい牧会的配慮の道を開いたのである。
おそらく、1925年(アメリカで、ボイセンが牧師のための臨床牧会訓練を始める)が、その端緒と考えられるのではないか。
あまりに精神医学や臨床心理学に寄りすぎてしまったり、逆に、伝道や教条的な教育に堕してしまったり、試行錯誤の時代が続き、キリスト教カウンセリング業界(そんなのはまだ確立していないのだが)として今は「援用」するという立場に落ち着きつつある。
牧会カウンセリングの主体は誰か、というのが大きな論点である。
(1)主体は牧師(一般的)。
「人生において出会うさまざまな苦痛に際して、それと取り組むために、牧師に牧会的な助けを求めている個人・夫婦・家庭に提供される牧会配慮の特別な一つのタイプ」(Dictionary of Pastoral Care and Counseling, 1990)
(2)主体は牧師やその他の専門家
「神学的展望を通して、経験的、行動的、個人的かつ協同的人生の探査、解明、指導」(The American Association of PastoralCounselors〔AAPC・アメリカ牧会カウンセラー協会〕)
これは、アメリカなどでは、牧会者とは異なる、実際の臨床心理職能集団が形成されている(されつつある)ことを前提に、定義を拡張する必要が出てきている。
日本では、専門性をあまり問題とせず、したがって主体も信仰者なら、誰でもよいといった風潮が一部にある。
(3)主体は牧師に限らず、信仰者なら誰でも良い。
「この点(霊的次元をしっかりと考慮しなくては、人間の問題の本当の解決が与えられない)をはっきり認め、それを根本にすえてあらゆる人生の諸問題や苦悩に対処し、援助を与えようとするのが「牧会カウンセリング」です。」
「牧会カウンセリングにおいては、特別な専門家はないと考えています。」
(三永恭平(1986)日本基督教団)
「聖書的な世界観を伝えることを意識した人(カウンセラー)が、そのような目的で人と関わること」
「聖書に立ったカウンセリング」「教会が行う多くの活動が含まれることになる」
(笹岡靖(2006)キリスト伝道隊)
…つづく(たぶん)
ある状況で使うべき統計の方法がひとつだけ答えとしてあるわけでないことや、普通に収集、処理していては厳密な観点からは穴だらけであること、など、当時としては強く印象付いたことである。
さて、私にとって統計は若い頃の思い出になりつつあった。ところが、大学院で修士論文指導をするようになって、俄然課題として再浮上してしまった。
今日は昼に、ある院生の論文指導を予定している。院生自体、社会人で統計に無縁であることから、まず相関、相関係数、F検定について、(ネットで適当な図解まで打ち出して用意し)個人教授する。そのうえで、かの院生のデータの分析を行い、結果を味わう予定だ。
…その前に私自身が昔を思い出さなくてはならない。朝、出勤と同時に、たしか30歳のころ購入した「教育・心理統計と実験計画法」(教育出版。1989年刊)を書棚から引き出し、「量と量だと…ここか」などと該当箇所を開いて、無心で読んでみる。そうそう、この作業。
統計の専門家から見れば、私のは、あまりに表面的、初歩的にしか使っていないし、統計の深みに無縁なままであるので、嘆かれてしまうかもしれない。ただ、曖昧模糊とした臨床の営みを、いったん数や項目に置き換えてみる作業は、予想以上に臨床的な発見や問題意識を引き出してくれる刺激があるように思う。(ますます統計学の先生、ごめんなさい)
3部門 ×2作品が発表されている。
たとえば…
【一言で表現部門・特別賞】
野球とは、父ちゃんのご機嫌装置 (さごじょう 26歳)
いいところをついていると思う。
ちなみに、
◎◎とは、★★ちゃんのご機嫌装置
と書くと、かなり普遍性が出てくる。
◎◎には、他のスポーツはもちろん、趣味、芸能人、習い事、嗜好品など、なんでも入れられる。
そして★★には、その当事者の名前を入れれば完成である。
ご機嫌装置という、自己演出も含めた波にのるのは案外ここちよい。
ご機嫌装置がなかったり、貧弱すぎたりすると寂しいものがある。
なぜなら、人は精神力や洞察力だけで自分をコントロールできないからだ。
やはり、ご機嫌装置のような「こころ」と「かたち」の中間くらいのものを確保しておくことが肝心なのだ。
ただし、ご機嫌装置から「装置」がはずれて、純粋に「ご機嫌」になってしまうと(目的化してしまうと)、いろいろとやっかいなことになってくるので、ご注意のほどを。

「シャッフル」(アメリカ、2007年) 主演:サンドラ・ブロック
”1週間がシャッフルされて進行する”という、ランダムな時間旅行モノ。
ただし、夫が交通事故で死ぬという事実を突きつけられた女性が、シャッフルされたような1週間のなかで、運命を変えようともがく姿を描いている。
最後は、結局、夫の死を救えない。ただし、その過程で不仲であった夫婦は、仲直りをし、再生する。(見方を変えれば、せっかく仲直りを果たした夫婦なのに、その直後に夫が死んでしまう悲劇になっている)
最近、このブログで、冬の朝夕の日射し (12/08)という記事を掲載した。
人生には青年期と老年期の2度、魔法がおとずれる。問題解決という魔法の青年期と、自己受容という魔法の老人期とである。
実は、この映画の感想にも、2つあって、それぞれに観る者の生き方が影響しているように思う。
第一は、夫の死を救えなかった悲劇に注目し失望する感想。これは、状況解決の青年期の物語に生きている人の感想である。
一方で、夫婦再生を果たした希望に着目し、幸福感を味わう感想。これは、自己改革の老年期の物語に生きている人の感想であろう。終盤の神父とヒロインとの会話に、その辺のテーマが盛り込まれていたように思う。

「シザーハンズ」(アメリカ、1990年)。ジョニー・デップ主演。
両手がハサミの人造人間が、善意の婦人に引き取られ、その街で巻き起こす騒動を描くファンタジー。その婦人の娘と恋も描かれ、その果てに悲劇も訪れる。
おそらくこの作品は、ハンディキャップや少数派の抱える苦しみと、そのことに素朴な善意で対応する残酷性を描いた作品でもあるのだろうが、私は別の思いを抱いた。
それは、人が他の人に寄せる親和性の問題のように思えた。山アラシのジレンマではないが、人に接近することは、同時に相手を傷つける要素、そして自分を傷つける要素がつきまとう。そのことを無視はできないが、あまり考えすぎるとやっていけない。もし考えすぎると、世捨て人のように、人里離れた古城に隠れるしかないのかもしれない…。

2004年の韓国映画。カン・ドンウォンの初主演映画として有名。
女詐欺師(キム・ハヌル)と、カン・ドンウォンが演じる純朴な薬剤師が、恋に落ちるラブ・コメディー。キム・ハヌルの圧倒的な演技で物語が進んでいき、カン・ドンウォンの存在感は脇役に近い。
それはそれとして、脚本が巧みで好感を持った。嘘つきヒロインの人生の背景がもっと描かれていれば、演技性人格障害のテキストになりはしないかとも思ったが、そうした描き込みはなかった。(せいぜい紋きり的な姉妹葛藤)
嘘(非現実)の世界に生きる詐欺師のヒロイン。おそらく真実の世界を求めすぎるからこそ、現実に満足できず、結局、嘘の世界に逃避していく。
本当は嘘半分、真実半分で、したたかに生きていけるとタフなのだけれど。
そういうヒロインの嘘と真実の二つの世界をいかに統合していけるのか。
ヒロインが嘘をつきながらも、田舎町での人々とのふれあいの場面は、統合と真逆である。嘘(非現実)の世界の充実である。
そして、嘘の世界が破綻する。しかし、ヒロインの嘘の世界をも見守る純朴な男性がいた。
映画では、素朴な男性が、ヒロインの嘘の世界を真実の世界に橋渡ししてあげることになる。
そういう意味で、最後にドンが仲間と演出する「出会い(ヒロインの嘘の出会い話)」の再現は、嘘を現実にする大切な儀式だったのかもしれない。
人生には魔法が2度訪れる。
1度目が、青年期。自分の理想や筋を展開させる中で、思い通りにうまく周囲や状況を変え、自分の目標を達成したときだ。
しかし、中年になると、その魔法は力を失い、現実的、実際的な生活が始まる。
2度目の魔法は、老人期、あるいは晩年期に訪れる。今度は、問題を解決するような魔法ではない。今度は運命を受け入れ、自分を変えていくという魔法だ。
冬の朝夕の光の美しさは、人生の魔法の時期に関係があるに違いない。
今日(正確には昨日)は、赤坂の相談室での勤務。帰りは、ひさしぶりに地下鉄・赤坂駅を利用した。赤坂サカスのイルミネーションも頑張っていた。今年も小さめのスケートリンクが張られ、そこそ滑っている利用者がいた。
最近、東京ミッドタウンを通って、六本木駅から帰るようになったせいか、赤坂サカスのイルミネーションが地味にみえてしまった。
毎週月曜日はイルミネーション評論家になれそうだ…。
今朝の朝日新聞の記事のなかの、専門家のコメントである。
しかし、人は、疲労感の一定ラインを越えると、むしろ自覚できなくなる。それが、カウンセラーとしての私の実感である。だから、自覚できないことを前提に、自分特有のSOSサインを点検しておくことを提唱した。
同時に、一般的なチェックリストもそれなりに参考になる。
記事にも紹介されていた「疲労科学研究所」のHPにも、チェックリストがある。20項目で、点数化して判定欄がついている。関心のある方は、そちらでチェックを!
一部の項目を紹介する。
1. 微熱がある
2. 疲れた感じ、だるい感じがある
3. 一晩寝ても疲れがとれない
8. 頭痛、頭重痛がある
11. よく眠れない
12. ゆううつな気分になる
14. 働く意欲がおきない
17. ぼーっとすることがある
(以上)
プロチームを応援する楽しみは2つある。1つは、個々のゲームで選手のプレイや監督の采配を楽しむ妙味だ。もう1つは、シーズンを通して、あるいは長期的に、フロイントや監督の哲学がどのように浸透していくかをみる妙味だ。
2009年のプロサッカーJリーグの優勝が鹿島アントラーズに決まった。最終節までもつれ込んだ戦いは、劇的な結末だった。浦和レッズの黄金時代到来に酔っているうちに、するりと鹿島アントラーズがとってかわってしまった。
鹿島アントラーズは、選手がどうの、サポーターがどうの、というより、チームの一貫性、安定感が印象づく。フロントの哲学のようなものを感じる。オリベイラ現監督を、サポーターからの解任要求があった時期も乗り越え、山、谷を潜り抜け、采配をとらせ続けている。
またオリベイラ監督もいろいろな哲学を持っている。そのひとつにメンタル面の重視だ。彼は就任当初から、精神科医のチームスタッフ導入を求めるほど、「サッカーにおいてメンタルは重要」と訴え続けてきたそうだ。また監督は、今シーズンの連敗脱出時には、選手の家族から手紙を送ってもらうイベントを用意し、選手の奮起を引き出したとのこと。
成績下降期のチームのフロントの方々。単発で、メンタル面の研修スタッフを招へいするのはいかがか?
<写真は、オリベイラ監督>
埼玉県内の大学が一般向け公開講座を、けんかつで開講するもので、正式な名称は「けんかつオープンカレッジ」。聖学院大学枠は、10月17日からの連続8回講座。私が、すべてを担当したわけではないが、そこそこに関わり、体調の波のある時期だっただけに、ほっと一息である。
実は、このブログのサイドバーには、映画DVDの紹介を載せている。けんかつ開講時には、講義にあわせて、そのDVD紹介もこまめに更新してきた。
映画のなかにある比喩を読み込むおもしろさは、際限がない。いましばらく映画の鑑賞をカウンセラーとして続けていきたい。
ちなみに、今日の最終回のあと。昼食をとりながら、受講した方々との懇談のひとときがあった。そこで、印象に残る映画の話題が出た。私の場合、やはり、2008年でのベスト1は、「私たちの幸せの時間」だな。
▼観てすぐ書き留めた記事
→映画「私たちの幸せな時間」 (01/04)
▼講義で配布したレジュメ
→映画「私たちの幸せな時間」 (01/15)
▼私の手帳のこだわり
記事:「手帳の季節」 (2006,12/09)
ほぼ日手帳を使いながら、手帳における「計画」と「記録」を考える (2008,11/08)
▼ブログ開設時(2006年12月)には、すでに私の初代「ほぼ日手帳」を使っていた。
新しい手帳 (2006,12/29)
▼その後の手帳カバーの歴史
ほぼ日手帳・異変・微調整 (2007,12/25)
「ほぼ日手帳」が〜! (2009,03/26)
阪神タイガースと一緒に、決断 (2009,05/21)
ほぼ日手帳のカバー、途中交代 (2009,05/26)
2010年の手帳は、パジャマのイメージで (2009,12/02)
▼使い方の工夫
来年の冒険〜手帳にコラージュ (2007,11/24)
コラージュ作品を携帯する (2008,03/27)
いよいよ、お試し期間の季節に (2008,11/06)
シール探しの旅 (2008,12/21)
クリスチャン向けの研修会などでも私はよくこのエゴグラムを使う。先日の牧会塾の最終回でも、実施した。もともと教会でエゴグラムを、という私のルーツは、もう15年以上も前、私の属する教会の牧師から、クリスチャンが自分の性格を振り返るなどして健全な自己洞察を行うことを助けるセミナーを教会で開いてほしいという要請を受け、5回か6回の連続したセミナーを用意したことにさかのぼる。いろいろなことを体験方式で行ったが、「エゴグラム」だけは、もっと深くわかりやすく伝えるはずなのに、うまくいかなかった不満足感が残った。(要請が10年早かった!)
その頃に比べると、エゴグラムのセミナーもずいぶんと熟練?の域に…。
さて、エゴグラムからみると、クリスチャン・リーダーに見られる典型的なパターンはどのようなものだろうか。経験則上(実は、たくさん溜まったので多変量解析をかけて)次の3つのパターンをあげておきたい。
(1)逆N型(CP、Aが高位)
真面目で信念に生きるリーダー。周囲にこびず、誠実にことを進める。たえず、信仰の基準で自分を管理し、理性的で、冷静である。冷静さや我が道を進める強さは、大指導者の素養にも通じる。
リーダーとしての課題は…、
自分の基準から外れる人に厳しく、人間関係では実は好き嫌いを抱きやすい。いざとなれば、理屈で相手をやりこめることができる。しかし、公平であるべきという信念があったり、自己コントロールの力にも優れていることから、それを外に見せることはないのだが。
自然体でだれをも(だらしない人をも)暖かく思いやり、関心を持つことは大きな課題となる。
(2)N型(CP、A低位、不明回答が多い)
笑顔の絶えない、優しい人柄勝負のリーダー。損得抜きに、目の前の人を助け、頼まれ事は引き受けてくれる善意の人で、気配りや空気を読む力は抜群。自分が困っていようと、疲れていようと、自己犠牲、隣人愛を自然体で実践する。
リーダーとしての課題は…
状況判断が甘く、計画性や目標志向性が欠け、「お人好し」で終わってしまう危険性もある。社交的だが、内心ストレスを溜めていやすいタイプ。意地悪な批判者がいると翻弄されやすい。(メンバーが自由に動けるので、リーダーである自分を支えてくれる人材が結果的に育つ展開は十分にある。)
状況を冷静に分析し、長期戦を戦い抜くこと、また悪意の外圧にきちんと対処していくことが大きな課題となる。
(3)M型
生まれながらの社交家、愛想の良いリーダー。楽観的で、いつも元気で、明るい雰囲気を作り出す。人見知りせず、意思疎通をとるのが上手い。自分に甘く、失敗も目立つが、憎めないところがあって、本人もストレスを溜めない。
リーダーとしての課題は…
自他共に甘く、状況に流されやすい傾向にあり、失敗も見せる。新しいものにも飛びついて、大成功することもあるが、大失敗することもある。
こうした甘さを、目先の人付き合いのうまさや愛嬌でかわさずに、本質的な内省や仕切直しをしていくことが大きな課題となる。
(以上)




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