連載:積極思考の落とし穴
2006.12.06 Wednesday 16:59
背伸びと息切れの時代・第3話
 「積極思考の落とし穴」

 私が少年院に勤務していたときのことです。ある生徒と話していましたが、彼は私にバラ色の未来を語り始めました。
「先生。自分がこの少年院を出たら、ドイツに音楽留学させてほしいんですけど」
「なぜ、音楽なの?」
「この間(縦笛を)うまく吹けたから」
「う〜ん。頑張ったのは知っているけど。それだけじゃなあ。それにどうしてドイツなの?」「ドイツは音楽が進んでいると聞きましたから」
「それでドイツって、何かアテがあるの?」
「ないから先生に頼んでるんじゃないですか!」
 また別のある生徒は、やはり少年院を出てからどうするのかという話題で私にこう言ってきました。
「先生。僕はキリスト教の牧師になると決めました」
「突然、どうしたの?」
「良い人間になるって決めたんです」
「教会に行ったことある?」
「小さい頃、一度行って、牧師さんとも少し話して、いい人だなって思って」
「だったらまず教会に行ってみたらいいんじゃない?」
「だからどうせ行くなら、最初から牧師になりますよ!」

 二人とも、幼く世間知らずなところが目立つので、会話は笑い話のようですが、彼らにとっては真剣な発言でした。ここまでいかなくても、「絶対に社長になる」とか、「有名人になる」と真剣に言う少年たちはごろごろいます。わざとホラ話をするくらいのつもりならいいのですが、そうではありません。彼らは至って真面目です。実は非行少年たちは、とても「プラス思考」「積極思考」なのです。完全勝利、大成功ばかりがいつも頭に浮かぶのです。そして思うばかりでなく、彼らなりに良かれと思って、がむしゃらに動き回り失敗します。たとえば演奏家になりたい彼は、真夜中に口笛を吹いてこっぴどく叱られました。宗教家になりたい彼は、読みもしない聖書を施設の図書室から借りて、これ見よがしに持ち歩いて周囲の仲間から反感を買いました。確かに積極思考ですが地に足がついていないのです。
 このことは大人の犯罪者にも言えると思います。経済犯罪を犯した会社の経営者を面接すると、感心するほど彼らは積極思考です。もしなんかの拍子に事業が成功していれば、今頃胸を張って積極思考を世に説いていたのだと思います。しかし、彼らは経営が悪化するなか、ひたすら積極策に出て、取り返しのつかない事態を招いていました。そしてそこでへこたれれば良かったのですが、さらなる頑張りと積極思考を発揮して、一か八かの大勝負に出たり、冷静に考えれば勝負にさえならないような暴挙に出て、法の一線を踏み外してしまったのです。彼らには社会性はあるのですが、本質的なところでどこか地に足がついていません。
 そもそも「積極思考」とは、物事の肯定的な面を重視し、明るい見通しを持って積極的に進んでいくことで、自分の潜在的な可能性を最大限に引き出していこうとするものです。人生は冒険の連続です。この考え方自体は、まちがってはいません。しかし、ただ単純に事態を楽観視し、楽天的に先へ先へと進んでいくだけだとしたら、それはまちがっています。その生き方の果てには必ず大きな落とし穴が待っています。おそらく積極思考で人生をダメにする人は、積極思考で人生の成功者となる人よりも圧倒的に多いのではないでしょうか。
 それでは人はどのようにして、本当の意味で積極思考を生かし、人生の成功者を目指すことができるのでしょうか。背伸びを続ける若者たちは、どのようにして、堅実な生活を取り戻すことができるのでしょうか。
 第一に、物事の否定的な面や、自分の弱さや問題をまず十分に直視し、認めた上で、あえて物事の肯定面も見ていこうとすることが必要になります。最初から、肯定面、楽観論を探すだけの生き方は、まやかしであり、あまりにも薄っぺらなものです。しかし、否定面をも見据えたうえで絞り出す積極思考には深みがあります。そこには地に足のついた現実性が含まれています。
 第二に、「なせばなる」という自己万能感や「努力は必ず報われる」といった自己過信ではなく、いかなる現象にも自分の思惑を超えた意味があり、すべてを自分の力でコントロールすることはできないのだという、人生に対する謙虚な姿勢が必要です。自分の都合の良いように楽観的に解釈していこうとする人は確実に解釈をゆがめていきます。そうではなく、自分の今賭けている冒険、向かっている夢は、自分以外の意志によっても導かれているのだという使命感や諦念のようなものが本当は必要なのです。本当の意味での使命感には、根性や努力ではなく「待ち望む」「ゆだねる」という感覚が不可欠です。
 人は、冒険や、失敗の後の再出発に際して、このような自己点検を行うことがぜひとも必要です。自分の弱さや限界をきちんと認めたうえで、いわば「良い意味で開き直る」プロセスこそ、真に積極的な生き方を続ける秘訣であるのです。

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連載:積極思考の落とし穴
2006.12.06 Wednesday 16:58
背伸びと息切れの時代・第3話
 「積極思考の落とし穴」

 私が少年院に勤務していたときのことです。ある生徒と話していましたが、彼は私にバラ色の未来を語り始めました。
「先生。自分がこの少年院を出たら、ドイツに音楽留学させてほしいんですけど」
「なぜ、音楽なの?」
「この間(縦笛を)うまく吹けたから」
「う〜ん。頑張ったのは知っているけど。それだけじゃなあ。それにどうしてドイツなの?」「ドイツは音楽が進んでいると聞きましたから」
「それでドイツって、何かアテがあるの?」
「ないから先生に頼んでるんじゃないですか!」
 また別のある生徒は、やはり少年院を出てからどうするのかという話題で私にこう言ってきました。
「先生。僕はキリスト教の牧師になると決めました」
「突然、どうしたの?」
「良い人間になるって決めたんです」
「教会に行ったことある?」
「小さい頃、一度行って、牧師さんとも少し話して、いい人だなって思って」
「だったらまず教会に行ってみたらいいんじゃない?」
「だからどうせ行くなら、最初から牧師になりますよ!」

 二人とも、幼く世間知らずなところが目立つので、会話は笑い話のようですが、彼らにとっては真剣な発言でした。ここまでいかなくても、「絶対に社長になる」とか、「有名人になる」と真剣に言う少年たちはごろごろいます。わざとホラ話をするくらいのつもりならいいのですが、そうではありません。彼らは至って真面目です。実は非行少年たちは、とても「プラス思考」「積極思考」なのです。完全勝利、大成功ばかりがいつも頭に浮かぶのです。そして思うばかりでなく、彼らなりに良かれと思って、がむしゃらに動き回り失敗します。たとえば演奏家になりたい彼は、真夜中に口笛を吹いてこっぴどく叱られました。宗教家になりたい彼は、読みもしない聖書を施設の図書室から借りて、これ見よがしに持ち歩いて周囲の仲間から反感を買いました。確かに積極思考ですが地に足がついていないのです。
 このことは大人の犯罪者にも言えると思います。経済犯罪を犯した会社の経営者を面接すると、感心するほど彼らは積極思考です。もしなんかの拍子に事業が成功していれば、今頃胸を張って積極思考を世に説いていたのだと思います。しかし、彼らは経営が悪化するなか、ひたすら積極策に出て、取り返しのつかない事態を招いていました。そしてそこでへこたれれば良かったのですが、さらなる頑張りと積極思考を発揮して、一か八かの大勝負に出たり、冷静に考えれば勝負にさえならないような暴挙に出て、法の一線を踏み外してしまったのです。彼らには社会性はあるのですが、本質的なところでどこか地に足がついていません。
 そもそも「積極思考」とは、物事の肯定的な面を重視し、明るい見通しを持って積極的に進んでいくことで、自分の潜在的な可能性を最大限に引き出していこうとするものです。人生は冒険の連続です。この考え方自体は、まちがってはいません。しかし、ただ単純に事態を楽観視し、楽天的に先へ先へと進んでいくだけだとしたら、それはまちがっています。その生き方の果てには必ず大きな落とし穴が待っています。おそらく積極思考で人生をダメにする人は、積極思考で人生の成功者となる人よりも圧倒的に多いのではないでしょうか。
 それでは人はどのようにして、本当の意味で積極思考を生かし、人生の成功者を目指すことができるのでしょうか。背伸びを続ける若者たちは、どのようにして、堅実な生活を取り戻すことができるのでしょうか。
 第一に、物事の否定的な面や、自分の弱さや問題をまず十分に直視し、認めた上で、あえて物事の肯定面も見ていこうとすることが必要になります。最初から、肯定面、楽観論を探すだけの生き方は、まやかしであり、あまりにも薄っぺらなものです。しかし、否定面をも見据えたうえで絞り出す積極思考には深みがあります。そこには地に足のついた現実性が含まれています。
 第二に、「なせばなる」という自己万能感や「努力は必ず報われる」といった自己過信ではなく、いかなる現象にも自分の思惑を超えた意味があり、すべてを自分の力でコントロールすることはできないのだという、人生に対する謙虚な姿勢が必要です。自分の都合の良いように楽観的に解釈していこうとする人は確実に解釈をゆがめていきます。そうではなく、自分の今賭けている冒険、向かっている夢は、自分以外の意志によっても導かれているのだという使命感や諦念のようなものが本当は必要なのです。本当の意味での使命感には、根性や努力ではなく「待ち望む」「ゆだねる」という感覚が不可欠です。
 人は、冒険や、失敗の後の再出発に際して、このような自己点検を行うことがぜひとも必要です。自分の弱さや限界をきちんと認めたうえで、いわば「良い意味で開き直る」プロセスこそ、真に積極的な生き方を続ける秘訣であるのです。

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連載◆Ц絏するが、悩まない!?
2006.12.06 Wednesday 16:53
背伸びと息切れの時代・第2話
 「後悔するが、悩まない!?」

 非行を行う若者たちと面接をしていると強く感じることがあります。それは、彼らが「後悔するが悩まない」生き方を続けているということです。彼らはいったん事件やトラブルを起こして、にっちもさっちもいかなくなると、その場では虚勢を張りますが、やがて冷静になります。そして我が身を振り返りながら後悔します。これまでのことを悔やみ、もうしないと決意するのです。それは嘘や演技でなく、本気でそう考えているのですが、しかし、悩んではいないのです。

■ 失敗の原因は?(意志が弱いから、短気だから)
 彼らは、自分の失敗を振り返って、あのときのあの行動がいけなかったのだと考えたり、その時の自分がどうかしていただけだったと考えたりします。あるいは当時の状況が悪かったのだとか、あの人がああだからこんな目にあったのだなどと考えるのです。要するに、本来の自分は有能であり、間違っているわけではないことを大前提にしたうえで、あの時のあの状況がなければ、こんなことになっていないのだと言い訳をしている姿なのです。そこでは、自分の生き方や本来的な性質について問題を認める視点はまったくありません。自分のあり方について悩まないのです。あくまでも自分の本質的なものから遠く離れたところの小さな判断ミスやその場の状況などにばかり目を向け、問題にしているのです。
 私は非行少年との面接のとき、彼らに「なぜ今回のようなことをしてしまったのか」とよく質問します。そこでよく返ってくる答えには二つのパターンがあります。ひとつは「意志が弱かったから」と、もうひとつは「短気だったから」というものです。
 彼らの言いたいことは、「今後意志さえ強く持てば、自分はそんなことをするような人物ではないのです。」「短気にさえならなければ、自分はまったく問題のない人物なのです。」ということなのです。

■ これからどうするの?
ついで、私は「これからはどうするのか」とよく質問します。すると、多くの非行少年は、実に景気の良いことを語り始めます。現実離れしたバラ色の未来を聞かせてもらうこともままあります。彼らは、悩まないばかりか、今後については、大成功するのだと考えようとします。
 しかし、カウンセラーの経験からいうと、今後のことについて、景気の良い、薔薇色の再出発を語りすぎると、その後がかえって危ないのです。薔薇色度合いが高ければ高いほど、すぐに次の挫折がやってくるのです。
ここには何が起きているのでしょうか。
 実は強力な悪循環が作られています。ある人が、多少の背伸びをしながらも頑張りの生き方をしていて、壁や限界が来たとします。そこでは息切れ状態に陥っているのですが、本人は自覚していません。本当はこれを機に、目標を見直したり、人に弱音を吐いて援助を請うたりしてもよいわけですが、本人には思いもよりません。ひたすら、自分の頑張りが足りないからうまくいかないだけであって、この事態を打開するためには、従来以上にもっと頑張って、強行突破しなければいけないと思うのです。そこで、背伸びの姿勢をさらに強いものとします。すると、ますます息切れ状態が深刻になります。すると、この段階でも立ち止まれず、背伸びをますます強くしていきます。そしてそれは、ますます「ますます息切れ状態」になって、さらにますます「ますます背伸び」になっていくのです。こうして雪ダルマ式に息切れの悪循環は深刻化していきます。自分の息切れ状態を認めないと、この悪循環は止まらないのです。そして悪循環が深まるたびに、すなわち現実の息切れ度合いが深刻になるたびに、自分にムチ打ち、惨めな自分の姿を見ずにすむように、高い目標を持ち出すのです。

■ 真に悩むことのできる人
 これほど、非行少年が、自分の失敗に向き合い、自分の弱さを認めるというには難しいことなのです。いや、こうした心のやりくりは私たち大人も同じです。非行少年であっても、私たち大人であっても、この難しさは変わりがないのです。
 なぜ難しいのでしょうか。それは自分の弱さや限界を認めてしまうと、自分の人生すべてが壊れてしまうという絶望感があるからです。自分のプライドも、自分の人生イメージも、親や周囲の期待にこたえることも、すべてが壊れてしまうという感覚があるのです。ですから、言い訳をしたり、バラ色の未来に酔うことで、現実の自分の姿を見ないですむように、そして絶望に至らないようにしているのです。
私たちは、非行少年たちに向かって、また懲りないことを繰り返す大人たちに向かって、自分の弱さや限界を認めてもすべてが壊れ去るわけではないことを、また無理に頑張る生き方を止めてもあなたの価値が下がるわけではないことを伝える必要があります。そして、後悔ではなく、真に悩むことで、これまで見えなかった様々なことを見いだすことのできることも伝えねばなりません。
 若い頃から、背伸び・強行突破の生き方を貫いてきた使徒パウロは、ある時「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(第二コリント一二:九)と告白しました。彼は信仰により、自分の弱さを認めて受け入れ、真に悩むことを選び取った人物でした。パウロのように、自分が失敗したとき、行き詰まったとき、自分の弱さについて語ることのできる人は、本当に強い人だと言えるでしょう。
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連載 Д團鵐舛里箸にこそ
2006.12.06 Wednesday 09:54
背伸びと息切れの時代・第1話
「ピンチのときにこそ」

 あなたは、見知らぬ土地で道に迷ったことはないでしょうか。歩きながら、自分が目的地に近づいているのかどうか怪しくなったとき、あなたはどうするでしょうか。もう少し歩いてみて、なんとかしようと思いますか。立ち止まって、一休みしたり、人に道を尋ねたりしようと思いますか。
人はピンチのときにこそ、個性が出ます。無理して先に進むのか、あえて立ち止まるのかの判断を迫られるからです。私はカウンセラーとして、心理相談室で、まさに人生の道に迷い始めた人の相談を受けています。そこで無謀に前進を続ける人には立ち止まるきっかけを、またへたり込んでいる人には、再び歩き始めるきっかけを探っているのです。

A子さんは、環境問題や歴史の本を読みあさる文学少女です。なんとなく高校に進みましたが、学校の教科には少しも関心が持てませんでした。勉強したいことはたくさんあるのですが、どうも夢半分で、現実的な次の一歩が見えてきません。最近では、友だちの話もわずらわしく、疲れるばかりでした。彼女の解決策は、ひたすら部屋にこもって、時間に追われずに、じっくりと本を読んだり、考えたりすることでした。・・・彼女が人前に出るのが怖くて、家から一歩も外に出られなくなったのは、それから半年後のことでした。
B子さんは、聡明で元気いっぱいの優しい娘さんです。ゆえあって高校を中退すると、すぐに地元の民間企業で働き始めました。必死で働き続けた彼女に待っていたのは、その地域での販売実績トップの栄誉でした。ところが二年目からはばったり販売成績が落ち込んでしまいました。彼女の解決策は、ますます働く時間を増やし、根性でこの事態を強行突破することでした。・・・彼女が「眠らなくてもすむ」という甘い誘惑に乗って覚醒剤に手を出したのは一九歳の春でした。
 
■二つの使い分け
 この二人の少女の話はいかがでしょうか。人というのは、ピンチのときに、二つの方向に反応します。それは一言でいえば、「甘え・へたり込み」と「背伸び・強行突破」のそれぞれの方向にです。「甘え」はちょうどA子さんのように、まず立ち止まって考えようとします。そしてへたり込んで後ずさりしていきます。周囲の人が声をかけると、こんなに困っていると切々と訴えてきます。一方、「背伸び」は、ちょうどB子さんのように、これまで通りにとにかく頑張ろうとします。背伸びをして、強行突破をめざします。周囲には、別に困っていない、ほおっておいてくれとうそぶくのです。
人は状況に応じて、この「甘え」と「背伸び」を選択し、時に弱音をはいて人に助けてもらい、時に歯を食いしばって頑張るといった使い分けができるのが理想です。これは若者だけでなく、すべての人にとって大きな課題なのです。大人であっても、大きな仕事を前に、徹夜をして成し遂げようとすることもあるでしょうし、他に相談して助けてもらったり、早々とあきらめ、代替の案を用意することもあるでしょう。こうしたことも、二つの反応を使い分けているということなのです。
 しかし、余裕がなくなると、使い分けの柔軟性がなくなり、どちらかに偏っていきます。「甘え・へたり込み」の方向にばかり選択し続けていくようになると、その果てに、A子さんのような内閉的、回避的な問題が生じてきます。一方、その反対に、「背伸び・強行突破」の方向の果てには、B子さんのような外向的、自己拡大的な問題が生じてくるのです。
 よく一般のカウンセリングを勉強しても、それを非行少年の指導には役に立たないという話を聞きます。それはその通りで、一般のカウンセリングは「甘え」と「自立」を扱う病院の臨床で発展してきた技術なのです。ですから、「背伸び」をして動き回る人たちには、まったく別の原則が必要となるのです。

■ 援助の仕方を間違えないよう
 ですから、「甘え」に傾きすぎた人には、受容し、安心感を与え、時に励ましながら、本人なりの自信と自立への動きを粘り強く見守ることがどうしても必要になります。一方、「背伸び・強行突破」の人には、むしろ限界を設定し、やみくもに動き回らなくても良いことを面と向かって伝え、地に足のついた生活ができるように方向付ける必要があります。
 その後、A子さんは大検の試験に合格し、少したくましさが出てきました。B子さんは少年院に送られ、その後社会復帰を果たしましたが、良い意味で弱音を吐けるようになりました。
私たちの身近にも、へたり込みがちなA子さんや、強行突破型のB子さんが大勢いるはずです。私たちはまず、困っているその人が、へたり込んでいるのか、背伸びの息切れ状態にあるのかを見分ける知恵を持つことが大切であると思います。そして、援助の仕方を間違えないように気を付けなくてはいけません。
道に迷ったことを後から振り返ると何でもないことかもしれません。しかし、道に迷っている最中の不安は大変なものがあります。この連載では、私の非行カウンセリングの体験から、「背伸び・強行突破」をしすぎて息切れし、失敗を重ねる若者たちの姿をとりあげたいと思います。そして、道を踏み外してまっさかさまに倒れてしまうことのないように、いろいろな教訓を学んでいきたいと願っています。

| ふじかけ | 連載:背伸びと息切れの 時代(非行エッセイ) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
雑誌連載「背伸びと息切れの時代」の掲載にあたって
2006.12.04 Monday 07:42
 雑誌連載「背伸びと息切れの時代」
今日は、昨年の11月から書いてきた連載記事「背伸びと息切れの時代」最終回(第14話)の校正を出して、すべての作業が終了する日です。雑誌は、「百万人の福音」(月刊、いのちのいことば社発行)というキリスト教(プロテスタント)雑誌です。
 非行カウンセリングの経験を、読者に提供する趣旨なのですが、同時に信仰者としての知恵も織り交ぜたいと思いました。よろしければご覧下さい。
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藤掛 明
雨の心理的イメージを鍵に、雨の降る物語を読み解く。カウンセリング論であり、人生論でもある。
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